大森周辺
今年で開業130年を迎える(H19現在)大森駅を出るとすぐ眼の前に見えるのは神社へ登る急な階段と、駅前通りの八景坂です。神社の階段を登って行けば、松風荘のあった八景園周辺です。八景坂を上ってず〜っと行けば、実業家時代に二代様の産後の保養の為に借りた家のあった庚塚(かのえづか)周辺に至ります。 ではまず松風荘のあった八景園の方へ行ってみましょう!
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急な階段を登りきると天祖神社があります。御祭神は天照大御神様であります。明主様もきっと訪れてらっしゃるでしょうね。 小生もごあいさつ! 当時は東を眺めれば海が近くに見えた事でしょう。今でも海苔が有名です。 |
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「大森の 吾庵よりも樹々の間に 海見え遊情しきりに湧くかな」
昭和6年
●はじまりは大本教信仰再開と、神霊研究の没頭でした。 ●昭和元年神の啓示をこの地でうけ、二代様が口述を筆記、ハテナができ、見真実となられました。その後もハテナの研究を続け。 ●昭和3年2月4日の節分より、事業を番頭に任せ神業に専念する。 ●一方収入が少ない為借金返済が難しく、アイス族の取立て、赤紙差し押さえなどにあい、経済的には最低生活を送られていました。 ●昭和4年5月23日、ピカゴロゴロ〜っと金龍神が守護神となられました。 ●間に合わ〜んとて、お産婆役をされました。オギャ〜! ●旧暦昭和5年5月5日の神秘の日に、庭内に「みろく塔」を建立。 正午ジャストに写真をパシャリッ! ●神秘の富士登山や、夜昼転換を感得された鋸山へはここから出かけられました。 ●熱烈な大本信者のY氏が、短刀畳に突き刺し談判におよんだのも松風荘。(聖師様その節は有難うございました。) ●松風荘お庭で上げた凧が発光! ●大森時代とは、神秘と奇跡の時代でした。 |
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そして忘れてならないのは、松風荘はただのお住まいではなく、瀕死の重病人ばかり集めた、療院であり、研究所であったという事です。 病や苦しみは浄化作用であると言う事に確信を得ると共に、浄霊の基礎が確立した場所なんであります!!! |
ココが駅前通りの八景坂!歌川広重の「名所江戸百景」の浮世絵でも有名です。しかし今は雑多な雰囲気で。。。ガックシ! この道を上ってしばらく行くと、E・S・モースの大森貝塚遺跡公園があり。さらに行くと。。。 歌川(安藤)広重「名所江戸百景 八景坂鎧懸松」 大田区立郷土博物館蔵 |
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鹿島神社があります。茨城県の鹿島神宮の御分霊がお祭りされております。もち小生もごあいさつ!!! 清清しい空気が漂っておりました。 (大森駅より徒歩約50分) |
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鹿島神社の西側が庚塚(かのえづか)周辺となります。ここは実業家時代に明主様が、産後の体調がすぐれない二代様の保養の為に、家を借りられた場所です。 当時の明主様は世界的恐慌の為事業は大打撃を被り、社運挽回に奔走しておられた時期です。その時期に妻の保養に家まで借りられる明主様は、お優しいなぁ。ビックだなぁ。愛だなぁ。。。 庭も広く、落ち着いた日本風の屋敷だったということですが、現在はご覧のような住宅地が広がり、地名も大井7丁目と変わって当時を偲ばせるものは何も発見できませんでした。 |
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唯一「大森庚塚町会事務所」にその名を偲ぶのみでありました。 |
はみだし@
大森八景園の空。。。 |
「ところが不思議なるかな翌21日、琵琶湖の湖上に大暴風雨が起こり、釣り船47隻が沈没したという椿事で、その当時の各新聞に掲載されていたのである。それは何のためかというと、神示によれば、観世音菩薩の守護神である金龍神が、同湖底に数千年間潜んでいたのが、時来って昇天する際、遥かにこれを眺めていた赤龍、(聖書にあるサタンは赤い辰なりという)が最も恐れていた金龍神出現を知って急遽飛び来たり、金龍神をたおさんとして、湖の上空において大争闘を演じ、ついに敗北して北方へ逃げ去ったのであるが、その乱闘が暴風雨になったのである。その後1ヵ月を経て、その当時私の住居は東京都大田区(当時大森八景園)に在ったが、正午頃住居の上空に大暴風雨雷鳴が起こったが、そのときから金龍神は私の守護神となったのである。」 観世音菩薩と私 昭和24年10月5日 我々信者でさえ俄には信じられないような(いえ信じてますが)奇想天外で面白い御論文。この暴風雨の新聞記事を探してみました。昭和4年4月21日の翌日の朝日新聞です。 |
近畿から北海道へかけ 未曾有の大烈風襲来 家屋の倒壊、船舶の遭難続出 数十年来の奇現象 ●21日早朝から日没にかけ猛烈な烈風が近畿、本州中部、関東、奥羽から北海道の陸上海上にわたって襲来し各地とも少なからぬ被害を被った。とあり。東京でも瞬間風速20メートルを越え未曾有のレコード、東北、北海道では22日も引続き風雨があるが、その他の地方は風ないで晴渡るはず。との記事です。紙上写真は丸の内付近で、烈風に倒された荷車とあります。 ●琵琶湖でアハヤ一騒動。21日午前5時半琵琶湖竹生島を出帆間際の定期船第3大湖丸(135トン)が風雨のため沈没し船客30余名と船員全部はかろうじて救助された、同湖水で汽船が沈没したのはこれが始めてである。 |
上記猛烈な烈風の約1ヶ月後の5月23日正午頃、大森八景園上空の大暴風雨雷鳴と共に、金龍神が明主様の守護神となられました。 この日も何かないかなぁと新聞を探してみたところ、面白いのがありました。昭和4年5月23日の翌日の朝日新聞です。 中央気象台がこの雷予報を的中させていたんですねぇ!当時の予報師が優れていたのか、わかりやすい雷雲だったのか、それとも。。。金龍神を見ちゃったとか。。。 |
はみだしA
大正末期から昭和初期を中心に、現在の山王(旧八景園)からその西側の馬込にかけて、多くの作家、芸術家が居住し、後に「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。尾崎士郎(人生劇場)、宇野千代夫婦がこの地に居を構えたのは明主様と同じ震災前の大正12年のことでした。東京近郊の別荘地として住みよい環境にあった為、士郎は皆を誘い震災後の住宅難も手伝って多くの人が集まり、文士村のもととなったと言われています。村の住人は互いの家を行き交い、酒を呑み交わしては文学談義に花を咲かせ、麻雀、ダンスにハメを外し、大森相撲協会、離婚騒動と、マスコミも巻き込みながら色々な事があったようです。現在この地域は散策コースが設定され、説明板などが設置されています。(小生は成果の乏しい、大森散策で終わりました。) |
丁度明主様がこの地にいらした頃、多くの文化人がこの界隈に集まっていたわけですね。
馬込文士村の住人
石坂洋次郎、宇野千代、尾崎士郎、川端康成、川端龍子、北原白秋、佐藤惣之助、子母沢寛、高見順、真船豊、間宮茂輔、三島由紀夫、三好達治、室井犀星、村岡花子、山本周五郎、山本有三、和辻哲郎、他です。それにしてもこの顔のオブジェ、よく似てるんだけどぅ。ちとキモく感じるのは小生だけでしょうか。。。