大森時代 @



●はじまりは大本教信仰再開と、神霊研究の没頭でした。


大正9年大本教に入信された明主様は日々大本教義を研究・実践し、ご家族や店員にも京都府綾部の大本本部での修行を勧めるなど、熱心な信者さんとなりました。
そんな中甥の彦一郎さん(お姉様の遺児)が大本本部へ修行に出られている最中、事故で亡くなると言う悲劇が起こってしまいます。これ以後ご親戚の反対などもあって約3年間大本教から遠ざかる期間がありました。それでも大本教義や神霊の研究は尚も続けられ、その研究と明主様独自の予見からここ大森の松風荘に移転し、大震災の難を逃れる事が出来ました。そしてこの予見の的中や、震災恐慌による事業の痛手、お子様の病死などの出来事は、再度大本教へと向かわれる要因となったかもしれません。



「それから私は、信仰に関してどこまでも深く究めなければならない、という覚悟をもって大本教に関する書籍、特にお筆先は繰返し、繰返し熟読したものである。--中略--大本教が応用した古代に行われた鎮魂帰神法という一種の修行法があり、仏教の禅とよく似ている。それによって身魂を磨こうと一生懸命したものである。それと共に、自己ばかりではない、他人に向かってこれは帰神を抜いた鎮魂のみの法がある、ところが実際は他人に向かう場合、鎮魂ではなく浮魂である。鎮めるのではなく浮かせるのである、浮かせて口を切らせる、それは憑霊に喋舌(しゃべ)らせる事であって、一時は随分喋舌らしたものである。それによって霊界の実相と憑霊現象を知りたいからである。これは霊界叢談の著書に出ているから参照されたいが、この方法も霊界を知るためには、幾分の効果はあるが、弊害もまた少なくないので、初心者は触れないように私は注意している。」
昭和24年12月30日


「欧米においても心霊研究家としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等のごときは名著もあり、斯界(しかい)の権威でもある。日本においても故浅野和三郎氏のごときは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私もいささか関係があったので惜しまれるのである。」
昭和22年2月5日

お筆先の研究だけでなく、J・S・M・ワード著「死後の世界」、オリウァー・ロッジ著「死後の生存」、スウエーデンボルグ著「天国と地獄」などの海外心霊研究書籍も読まれ、上記浅野氏(大本信者)主宰の心霊研究会の会員でもいらっしゃいました。


心霊研究会の実験会に行き いと珍しき霊の作用見し
                    昭和4年11月14日 日記



また、明主様ご自身の周りでも不思議な事は起きていました。


「その人は私の顔をジッと見ながら、「大本教は観音様と関係があるのですか?」と訊くので、私は、「否、大本教は神道であるし、観音様は仏であるから関係はない」と言うと、その人は、「しかし先生の座っておられる右の方に等身大の観音様が見える」という。つまりその人は、その時霊眼が開けたのである。--中略--なおその人は言葉をついで、「先生が今便所へお立ちになると、観音様が後からついて行かれ、先生がお座りになると同時に観音様もお座りになった」またよく訊くと、「観音様は眼を閉じておられ、お顔やお身体は、画や彫刻にある通りです」――と言うのである。その後その人が私の家へ行こうと思うと、「眼の前にぱっと観音様が見える」――という事など聞き、私も不思議に思った。それまで私は、観音様の信仰は全然しようとも思わなかった。ところが右の事があって、「自分は観音様に何か因縁があるに違いない」と思った。それ以来、種々不思議な事が次々起こる。ある時は大本教信者の某氏が、「私の頭の上に渦巻が見え、その中心に観音様がおられ、背中に十の字が見える」というのである。私はその意味がはっきりは判らなかったが、その後信仰上一大迫害を蒙(こうむ)り、苦悩のドン底に落ちた事があったので、初めて判ったのはちょうど右の霊視の通り、渦巻の真中に私が置かれ、十字架を負わされたという運命に逢着(ほうちゃく)したのである。その後暫くして私は三月ばかり神懸りになった事がある。」
昭和24年10月5日



●昭和元年神の啓示をこの地でうけ、二代様が口述を筆記、ハテナができ、見真実となられました。その後もハテナの研究を続け。


「忘れもしない大正十五年すなわち昭和元年十二月ある夜十二時頃、いまだかつて経験した事のない不思議な感じが心に起こった。それは何ともいえない壮快感を催すと共に、何かしら喋舌(しゃべ)らずにはいられない気がする。止めようとしても止められない、口を突いて出てくる力はどうしようもない。止むなく出るがままに任せたところ、「紙と筆を用意しろ」という言葉が最初であった。私は家内にそうさせたところ、それから滾々(こんこん)と尽きぬ言葉は思いもよらない事ばかりである。まず日本の原始時代史ともいうべきもので、五十万年以前の日本の創成記であった。--中略--この神憑りは七千年以前まで出たが、そこでピタリと止まってしまった。約三ケ月くらいであった。その記述は便箋にかいて約三、四百枚はあったであろう。もちろん大事に保存していたが、その後当局から度々弾圧され、その都度家宅捜索を受けたので、ブリキ缶へ入れ土へ埋めたりしていたが、まだ安心が出来ないので、ついに焼却してしまった。なぜなれば皇室に関する事が割合多くあったので、その頃としてはこれが一番危険であったからである。
その記録の中、未来に関したものも相当あったが、これは今日発表する事はいまだ時期の関係上困難である。--中略--この事によって私というものは、いかに重大なる使命をもって生まれたかという事を知り得たので、ここに心気の大転換が起こった。」
昭和24年10月5日


便箋に3、400枚とはかなりの量です。また「弾圧・家宅捜索」との記述から考えると、もしかするとこの貴重で危険なブリキ缶は、玉川郷までお持ちになったのかもしれませんね。10年以上隠されていた事になります。
この不思議な記述は明主様独特のユーモアで「ハテナ」と名付けられ、縁の下などに隠されていました。そして時折取り出しては読まれていたそうです。
「ハテナ」 =?。
当初は御自身の口述でありながらも、?な点もあり懐疑的であったであろう事も、誠に勝手ながら想像ができます。


「何しろいまだ聞いた事も、見た事もないようなドエライ使命であるから、一介の凡人たる私として、いささか荷が重過きるように思わざるを得ないのであるが、ただ委任の当事者が大変な御方で、世にも素晴しい神様と来ているのでどうしようもない。まさか断わる訳にもゆかないという訳で、最初は随分疑っても見、反抗してもみたがテンデ歯が立たない。神様は私を自由自在に操り、踊らせるのである。」
昭和24年5月25日


「一体私という人間は、何の理由によってこの世の中に生まれたかであるが、私の前半生は平凡なものであった。しかし一度宗教人となるや、すべてが一変してしまったのである。というのは何物か分らないが、私を狙って何だか目には見えないが、玉のようなものを投げかけた、と思うや、その玉が私の腹の真中へ鎮座してしまったのである。それが今から約三十年くらい前であった。ところが不思議なるかな、その玉に紐が付いているらしく、それを誰かが自由自在に引張ったり、緩めたりしているのだ、と同時に私の自由は取上げられてしまったのである。自分が思うように何かをしようとすると、紐の奴引張っていてそうはさせない。そうかと思うと思いもよらない方へ紐が引張ると見えて、その方向へ運ばせられる。実に不思議だ、ちょうど傀儡師(かいらいし)に操られている私は人形でしかない。
そればかりではない。その頃から私は今まで知らなかった色々な事が判るのだ、初めはそうでもなかったが、時の進むに従って、それが益々著しくなるのだ。以前私は学んで知るを人智といい、学ばずして知るを神智という事を聞いた事があるが、そうだこれだなと思った。確かに神智である。何かに打(ぶ)つかるやその理由も結果もすぐ判る、考える暇もない程だ。といっても必要な事のみに限るのだから妙だ。信者から色々な質問を受けるが、とっさに口をついて出てくる。そういう時は自分の言葉で自分が教えられるのだから面白い、特に一番肝腎である人間の健康についての事柄は、全般に渉(わた)って徹底的に判ってしまった。」
昭和26年8月8日


明主様はこのように、一切万有の奥の奥まで、全てズバットお見通しの境地を「見真実」と呼ばれました。


「そうして見真実を判りやすくいえば、ピラミッドの頂点の位置に上ったと思えばいい、ピラミッドの高き尖端に立って俯瞰(ふかん)する時、高い程視野が広くなり、多くを見得ると同様である。
 ここで私の事を言わない訳にはゆかないが、私は四十五歳
(S2)にして見真実になったのである。見真実の境地に入ってみれば、過現未にわたって一切が明らかに知り得る。もちろん過去の一切の誤りは浮び上って来ると共に、未来の世界もその時の人間の在り方も、判然と見通し得るのである。といって知り得た総てを今は語る訳にはゆかない。何となればサタンも提婆(だいば)もパリサイ人もいまだ妨害を続けつつあるからである。」
昭和24年8月30日


如何なれば 吾れは此世に生れにしと 永きうたがひ解きし御教
                              昭和2年6月15日

四十五歳 吾見真実となりてより 説きし悉(ことごと)真理なりける
                               昭和26年2月5日



昭和元年12月〜昭和2年3月頃まで約3ヵ月に亘って続いた神示を経て、明主様は「見真実」の境地に立たれました。
※「昭和2年12月」と言う記述もあります。
いずれにしても大森時代とは、御経綸の中でも節目となる重要な時代であった事がわかります。
その割りに御跡を偲ぶ物は、何も発見できませんでしたけど。。。(涙)


でも八景園からの眺め。(南)
場所Aのマンションのオープンルームに遭遇!便乗しちゃいました。Lucky !

※画像をClick
でも海が見えたはずの東側は今やこんな感じ。。。
松風荘跡か〜もしれない。。。このマンション!
築29年、3LDKで、5980万円也!
う〜む!今回はよしとくか。。。(苦笑)



●昭和3年2月4日の節分より、事業を番頭に任せ神業に専念する。

「私の前生も、祖先も神との因縁も、私のこの世に生れた大使命もはっきり判って来たのである。これは一大事だ。一大決心をしなくてはならない――という訳で、営業は全部支配人に任せ(後に全部無償で譲渡した)それからは全身全霊を打込んで信仰生活に入ったのである。それは忘れもしない昭和三年二月四日節分の日であった。」
昭和24年12月30日


「それまで従事していた仕事を全部放擲(ほうてき)し信仰生活に入った記念日でもある。」
昭和24年10月5日


「専心神業に進んだのは昭和三年節分である。節分は意味があるが。。。」
御講話 昭和23年

--立春の意義についてお伺い申し上げます。--

「節分はだいたい二月四日ですがね、その日で冬が終わり、二月五日から春になるので立春というのです。それから、昔、国常立尊(くにとこたちのみこと)という神様が世論によって押し込められたのが節分の夜で、今度世に現れるのは立春の日だといわれてます。これは大本教のほうの説ですがこれは本当です。観音様の裏は国常立尊ですから。」
御光話 昭和24年1月18日


※霊界では閻魔大王、善悪を厳しく分けられる神様の現界御出現は(S29)立春の日からでした。 
6月15日とは別の節としての重大な日です。



●一方収入が少ない為借金返済が難しく、アイス族の取立て、赤紙差し押さえなどにあい、経済的には最低生活を送られていました。


「何しろ以上のような訳で、金儲けを止めた以上借金返済は不可能となったので、アイス族共代る代る差押えに来た。何しろ信仰的病気治しの御礼くらいでは知れたものだから、そこで生活費を極度に切り詰め、最低生活で辛抱し、少しずつは返したが、中々思うようにはゆかなかった。そうこうする内幸いにも段々発展し取入も大分増えたので、ようやく借金残らず返し切ったのが昭和十六年であった。」
昭和28年7月15日
※アイス=氷(菓子)=こうり→高利貸し


二度までも クリーニングの帽(ぼう)かむり はじらひのなき吾となりけり

いつになく 今年の暮は○(かね)の為 苦しむ事のなきぞ嬉しき
                            昭和5年12月30日 日記


「私が中年頃から二十余年間は、実に借金との苦闘史時代といってもよかろう。--中略--差押えらるる事、実に六、七回に及んだ。これは経験のない人はちょっと判り難いが、差押えを受けるという事はおよそ気持の悪いものである。執達吏(しったつり)君が来て、妙な紙片を眼ぼしい家財にペタペタと貼る。特に弱ったのは箪笥(たんす)の抽出(ひきだ)しである。抽出しを開けられないよう貼るのだから衣類など出す事が出来ない。しかも右の紙片を毀損(きそん)する時は刑法に触れるという事を執達吏が申渡すので、どうしようもなく、これには一番閉口した。」
昭和24年8月30日


昭和5年から側近で奉仕されていた岡庭通明先生が初めて松風荘を訪れた時、タンスなどに差し押さえの赤紙が貼られているのを見て驚いていると、「今はこの通り不自由しているが、そのうち、私のまわりには、降るように金が集まって来るんだ。」と仰ったそうです。



●昭和4年5月23日、ピカゴロゴロ〜っと金龍神が守護神となられました。


この日の正午頃、明主様は松風荘にて色紙に絵を描かれていたそうです。そしてその上空で大暴風雨雷鳴が起こり、この時から琵琶湖に隠れていた金龍神が守護神となられました。御論文抜粋は後に m(__)m


●間に合わ〜んとて、お産婆役をされました。オギャ〜!


止むを得ず 吾れは産婆の代わりして 取上げるよりせんすべのなき

水留の 来らぬ内に之(こ)れはこれは 産声雄々しく男児生まれり

大神の 貴(あて)の経綸(しぐみ)かしらねども 産婆役せり生れて始めて
                                昭和4年4月11日 日記
             ※朝の5時くらいの事で、産婆の水留さんは間に合いませんでした。


 真文明が生まれる、産婆役の型だったのでしょうか。


●旧暦昭和5年5月5日の神秘の日に、庭内に「みろく塔」を建立。正午ジャストに写真をパシャリッ!


今年の六月吾に大使命下る予感の頻(しき)りに来るも
                        昭和5年2月8日 日記


そして昭和5年の新暦6月1日は旧暦の5月5日であり、そこに神秘の数の重なりを見出されました。


「このように数の神秘というものは、なかなかたいしたもので、以前昭和五年五月五日、その時にもたいへん神秘な事があって、それが不思議なんで、昭和五年五月五日、これは旧で、今度は新で、これも神秘があり、五年五月五日午(うま)の年の午の月午の日で、その午の刻に写真を撮った。午というものは一番陽のものとしてあります。午の刻というと、ちょうど十二時で、太陽がちょうど中天に昇った時で、午の年午の月午の日というものは、何千年に一遍あるかないかという日で、五五五でやはり午午午となります。
この時に最初の偉い神様が御降臨になった。」
御講話 昭和10年10月6日


この神秘の日付を見出された明主様は、「みろく塔」と名付けて松風荘お庭の一隅に用意しておいた十三重の塔の前に立ち、五五五の午午午の日の正午ピッタシに写真を撮って、ひそやかな祝いをされたそうです。


「私は午の年の午の月の一日に生まれたんですが、この人は将来必ず人の頭に立つ人だって言われたもんですが、なるほどこれは当たってると思っているんですよ。
 ちょっとおもしろい話があるんですがね。昭和五年の五月五日、この日は午の年で午の月で午の日になるんです。五は火で午ですからね。五、五、五でまた午、午、午となった日はないらしいんです。そこに私の霊的意味もたいへんあるんですが・・・その昭和五年五月五日の正午に私がおもしろい格好で撮した写真がありますから見せて上げましょう。」
御光話 昭和24年5月




お召し物は大本宣伝使の正装、後ろにあるのが「みろく塔」です。みろく塔はその後玉川郷(宝山荘)敷地一隅、築山の上に移されました。そして現在は紆余曲折をへて、京都平安郷内に建立されているそうです。



●神秘の富士登山や、夜昼転換を感得された鋸山へはここから出かけられました。


別ページにて長々と。。。 m(__)m



●熱烈な大本信者のY氏が、短刀畳に突き刺し談判におよんだのも松風荘。(聖師様その節は有難うございました。)


大使命 あるほど患(なや)み多しとの 聖言(みこと)きゝてゆ勇む吾かな
                                     昭和2年6月15日


神示の数ヶ月後に御詠みになったこの御歌のごとく、以後30年近くにわたり様々な苦難と戦いながら御神業を続けられました。
その最初の受難が。。。


「この男は私を大本教の平和をみだす怪しからん人間と思い、ある日短刀を持って場合により私の命を奪おうとして談判に来た。--中略--私は見破ると共に奇蹟が起って助かったが、ともあれこれが受難の最初であった。その後私の腕を折ろうとした奴があった。気合術といって柔道の一層烈しいような術で、この術の猛者(もさ)が来たのである。これもまた奇蹟で難を免れたが、その後も私は執拗に狙われたが、無事に済んだのは全く厚い御守護であった。そんなこんなでついに私排斥の猛運動まで起ったので、私はついに大本を脱退したのであった。しかしこれが幸いとなり、同教弾圧事件の際も累を免れたのである。」
昭和27年


「昭和七年春、月日は忘れたが、突如大本信徒である未知の青年が訪ねて来た。彼いわく、「今大本教内で、あなたのために大問題が起こっている。その訳は大本教で最も重要とされるお守やおひねりをあなたが作って信者に与えているそうだが、これは神に対し大不敬である。一信者たる者が作るとは怪しからぬ。そういう異端者を生かしておく訳にはゆかぬから、大本教団のため、神に対する反逆者を誅伐(ちゅうばつ)する。もし止めなければ自分は一身を犠牲にし、あなたの生命を貰う」と言い、懐中から短刀を出し畳に突刺したのである。--中略--いよいよ金龍に対し、赤龍が人間を使って、雌雄を決せんとしに来たのだ。「よしサタンに負けては大変だ」と意を決し彼の要求を断乎拒絶した。すると彼の顔色はサッと変り、今や行動に移らんとする刹那、彼は突如として俯臥(うつぶ)せになると共に、苦悶に呻(うめ)くのである。訊いたところ、彼いわく、「腹が痛んで堪らない」という。「よし私が治してやるから横になれ」といい、浄霊をするやたちまち快くなった。それから彼の態度は一変し、穏やかになると共に出口師に面会のため、私と同道して大本教の本部である京都府下亀岡へ赴いてくれと云うので、私も快諾し翌朝出発、亀岡へ行ったのである。もっともお守やおひねりは出口師の諒解(りょうかい)である事を私が語ったからで、彼はそれを確かめるためである。直に出口師に面会した。出口師いわく、「自分でさえお守は出来ない事になっている。これは三代直日(この婦人は出口師の長女で三代様と信徒は言っていた)だけが、神様から許されているのであるから、信者が造る事は出来ないのだが、岡田さんは特別の人だから、あまり目立たないように作ってくれ」といったので、彼も止むを得ず沈黙したのはもちろん、この問題もこれで一まず解決したのである。」
昭和24年10月5日


まったく関係ないですが。大本では出口師の御血筋の中で選ばれた御独りが、書による救いを許される様ですね。

まったく関係なくもなかったり、かなぁ。。。?


●松風荘お庭で上げた凧が発光!


昭和9年正月4日、明主様は庭で大きな達磨の凧を上げられました。たまたま庭に出ていた岡庭真次郎先生が、ふとその凧を見上げると、そこから紫色の光が、丁度花火の火が四方に吹き出すごとく出ているのを発見しました。皆を呼んでその光を仰ぎ見て感動し、明主様にその訳をお尋ねすると、「いや、なんでもないですよ。ただ私の身体から出た光が、手から糸を伝わって凧まで行くと、伝わる所がないから、凧のまわりから吹き出すだけなんです。」と仰ったそうです。(景仰要約)

我々からすると、この様な大奇跡も、すでに明主様にとっては「なんでもないですよ。」と仰る程度の事だったようです。むしろ人を救う奇跡、何かを明主様に伝授するかのような奇跡連発の時期が大森時代だったようです。


「神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦等の研究に没頭したのである。と共に次から次へと奇蹟が表われる。例えば私が知りたいと思う事は、なんらかの形や方法によって必ず示されるのである。そうだ確かに神はある。それもすこぶる身近に神はおられる。否私自身の中におられるかも知れないと思う程、奇蹟の連続である。」
昭和24年12月30日


「偉大なる何者かが私を自由自在に操り、一歩一歩神の世界の実在を、奇蹟をもって会得させた事で、その際込上げて来る歓喜をどうする事も出来なかった程である。この気持たるや幽幻至妙言葉では現せない心境であった。
しかも相変らず奇蹟続出で、興味津々たるものがあった。一日の内に何度心が躍ったかは分らない。」
昭和27年


「神憑りになって、色んなことが分かったんですね。それから、他にも色んな奇跡があって、いよいよ決心して始めたのが、昭和三年の節分からです。そうして、色んな不思議なことが沢山あって、昭和九年まで六年間、神様の修行というようなわけですね。」
御講話 昭和27年1月3日


この時期の具体的な奇跡や、何らかの型を示すかのような不思議な出来事の一端については、御論文の中で度々紹介して頂いておりますが、当時明主様の側近にて奉仕されていた井上茂登吉先生は。。。


「明主様は大森八景園で飛躍の時をお待ちになっておられた頃である。この昭和六、七、八の三年間は、専ら神定の一エポックたる幽界の御経論を成就された時期であって、不思議な霊的事象は毎日のように起っていたし、訪れる人にも一つ一つ御神業の大きい意義を持っていて、明主様以外誰の眼にも解し得ぬ無形の御仕事も多々あられた事と思う。」
昭和26年6月25日


と回想されております。大森時代とは奇跡連発の時代、真理探求の時代、そして何より大きな使命に気付かれた、御経綸の中でも大きな節目となる時代でした。



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