大森時代 A



「大使命を知らされ、光明世界建設のことも、このときに知らされたが、最初私はこれを疑っておりましたが、その後たくさん奇蹟が続出したのであります。この状態が三月ばかり続きましたが、その後半カ年くらい後に、大本教へ行ったとき出口先生が神憑りで知らされた通りのことを言って、あなたは病気治しをすれば、なにほどでも治ると知らされたので、家に帰って病気治しをやってみると良く癒えるので、いよいよ神様から大使命のあったことを悟って、三年かかって商業をやめ、神様専門になったわけであります。」
昭和10年1月11日


神示について確信を深め、病気治しを試みるきっかけの一つとなったのは、大本教の出口王仁三郎・聖師様のこの一言があったとも拝察されます。


「いよいよ全身全霊を打込み、神の命のまま進む事となった。何しろ神の意図が半分、自己意識が半分というような訳で、普通人より心強い気もするが、普通人より心細い気もする。もちろんそれ程の経済的余裕もなく、まず数ケ月維持するくらいの程度しかなく、確実な収入の見込もない、実に不安定極まる生活ではあるが、しかし絶間ない奇蹟や神示のおもしろさで、経済不安など忘れてしまう程で実に、歓喜の生活であった。ただまっしぐらに霊的研究と病気治療に専念したのであった。」
昭和24年12月30日


この頃の松風荘のようすについて、御親族の方は「景仰」誌の中で。。。



「大森に住んでいたころ、入院患者もずいぶんいました。それも、精神障害とか、結核などの重病人ばかりでしたが、父は、そういう患者を毎日浄霊しながら、研究を重ねていたようです。--中略--私や弟妹たちは、みな野菜ばかり食べさせられたこともあります。野菜ばかりで丈夫になるかどうかを、他人にはできないので、自分の子供を実験台にして研究したようです。またそのころ、私はよく耳下腺が腫れて、大変苦しみましたが、父は、放置しておくのと、浄霊をするのとでは、どの程度の違いがあるのかを試していたように記憶しています。--中略--毎日たくさんの病人がやってきて、ときには子供部屋まで占領されてしまうこともありましたが、父は、一生懸命その人たちに浄霊をしていました。」


また、どうしてもと請われれば遠く石川県や千葉県へも病気治しに出掛けられました。


米原に汽車乗りかへて能登の国七尾へ午後の二時半に着く
三回の鎮魂に大いに快くなりて両親共々喜ぶ
病人の病快けれど衰弱の甚だしきをば心つかゐぬ


午後十時半頃へんぴの百姓家○○方へ着きにけるかな
○○方を十二時頃に発ち両国へ着し麹町へ行けり
                               昭和7年 日記より


※当時の浄霊は「鎮魂」と呼ばれ、祝詞や天(あまつ)数歌等を唱えて祈り、手をかざしたり、さすったり、患部を圧したり、息を吹きかけたり、言霊の力を利用したりする方法で、その後幾多の変遷を重ね昭和25年、体に触れない現在の浄霊法を許されました。
名称も「鎮魂」→「施術」→「治療」→「お浄め」→「浄霊」と変わっていきました。


明主様は昭和3年の節分までは事業もされながら、このような病気治しも始められ、さらに支部の主任でもいらっしゃいましたが、その後「準宣伝師」になられ専従されるとミルミル出世されて、翌昭和4年には東京本部の幹部となっていました。明主様も沢山の方をお導きされ、また御指導なされて東京の大本教も大きく発展して行きます。


吾が力日々に加わりゆくにつれて※服(まつ)ろうまめ人増へてゆくかな
      
※信者さん
吾言葉耳傾くる人日に月に殖えゆくさまの楽もしきかな
段々と神業進み忙しくいよいよ千手観音の吾れ
                                       日記より


そして支部を周って講演をされたり各家庭を周られたりと、大本教の一宣伝使としての御神業と直接の人助けである病気治しと、共に精力的な活動をされ大変ご多忙な日々を送られていました。


五時間に亘(わた)り説きし神業に胸はれ欣(よろこ)び○○氏去(い)くも
風邪未だ治らず寒き夜の街をあちらこちらに行くぞ苦しき
睡眠の不足の為めか今日一日流石に元気引き立ちかぬるも
昨日より風邪の為に心地悪しく鎮魂多勢に疲れはてけり
五、六人の信者残りて信徳の話に徹夜なしにけるかな
                                   昭和4年〜6年 日記


御神業いよいよ忙しく身も魂もへとへとになり疲れ果てけり
次々に病人来り目も開けぬ許(ばか)り忙しくなりにけるかな
                               昭和6年 日記



40代後半の大本幹部岡田先生は、身を削るようにしながら御神業に専念されました。
しかも借金返しながら。。。

しかし、この様にご多忙な中でも。。。




一、名 称  天人会

一、本会は地上天国出現の目的の下に大に笑ひ且(かつ)文芸を娯(たのし)み地獄的現代の世相に超然として高尚なる歓笑裡に天国楽園に遊ぶ思ひあらしめんとす。同好の士奮(ふるつ)て入会あらん事を。
一、会 費  一ケ月金三十銭(但句料不要句数無制限)
一、入 会  自由
一、出 題  毎前月十日
一、〆 切  毎前月三十日
一、開 巻  毎月十日午後七時より松風荘に催す
一、賞 品  選者筆美巻納色紙短冊等
一、発表の句は時々謄写に附し会員に配布す

      昭和五年八月 府下大森八景園(松風荘)天人会



天人会とは、明主様主宰の笑い冠句の会です。私たちも忙しい日常や、苦労の中にあっても、笑いを忘れないようにしたいですね。。。
笑いは、地上天国出現の重要な要素のようです。その前に、天国的生活の重要な要素でもありますね。






そして超ご多忙の中、信者に請われるまま、書画の揮毫による救いが始められたのも昭和4、5年頃からだったそうです。


「神体」を書く場合、「観音光」が私の手と筆を通して文字の中へ入って行くんであります。それが為に文字やお像から絶えず光を放射するんであります。その光に依って一家の罪障が除れるんであります。
昭和10年3月4日


私の書いた絵や文字から光が出るのを見る人はたくさんある。事実光が出るのである。その文字の通りの光が出て光が文字の意味通りの働きをする。この説明はいまの科学的頭では理解できない。私が光と書いた紙を懐に入れると光の働きをして、それが腕を通って放射し病気が治る。私が字を書くと私の手から光が筆を通って紙に印象されるわけである。それは私の腹には光の玉があって、その光が手を通る、またこの玉は観音様から出る、観音様はまたその上の神様から出る。私が大光明如来と書くと大光明如来の働きをする。
昭和24年4月20日


上記は後年の御論文ですが、当初は扇面に「万霊を浄めて救ふ此(この)扇」などの文字を書き「鎮魂」に利用したり、紙片に「ひかり」などの文字を書き丸めた「おひねり」や、観音像のお守り、色紙、短冊等を御揮毫なされていたそうです。


「たとえてみますと御手代であります。扇子に字の書いたもの、病気の治る意味の字の書いたもの、それを患部に当てると治る。扇子の字で病気が治るという、これを科学的にみればあまりにも不可思議千万な話で、--中略--ところが、博士が見放した病気が立派に治るんであります。
その扇子を病気の所へ当てれば、治る意味のことが書いてあるんですから、その字が働くんであります。文字が働くなどということは、いかにも大きな力です。それが観音力であります。観音力はいろいろな働きがありますが、文字が働くということもすばらしいものなんであります。」
御講話 昭和10年5月11日


そして昭和6年の鋸山での天啓以降は本格的な観音像も多数描かれるようになりました。




昭和6年揮毫


「神格を得るに従って大きくなります。観音様の御姿はお座りになって鴨居位まであって、私はこのお姿を見て書いたのが元本部の御神体になって居りました日の出観音様なのであります。ほとんど裸で光明が非常に強くきらきらとしています。これは観音様の御姿の書き初めであったのですが、この為見当がつき書くのに非常に参考になったのであります。」
観音講座D 昭和10年8月25日


「日之出観音」像は昭和10年1月1日「大日本観音会」発会式における仮本部の御神体となりました。



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