明主様は昭和10年10月〜19年5月までの約9年半を宝山荘で過ごされました。
ここで改めて、この間の時代背景と出来事を簡単に書いておきたいと思います。 
おい!かつお式どうなってんだぁ〜今までとちと違うゾ!!!


昭和10年  満州国皇帝「溥儀」来日、天皇機関説、国体明徴声明、イタリアのエティオピア侵攻、第二次大本事件
昭和11年  226事件、日独防共協定締結
昭和12年  盧溝橋事件(日中戦争勃発)
昭和13年  国家総動員法公布
昭和14年  ノモンハン事件、ドイツのポーランド進撃(第二次世界大戦勃発)
昭和15年  日独伊三国軍事同盟条約調印、大政翼賛会発足
昭和16年  南部仏印進駐、ハワイ真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)、マレー沖海戦の勝利
昭和17年  シンガポール、東印度の連合国降伏、各海戦にて勝利、マ司令官フィリピンより逃亡、南洋諸島他次々占領、ミッドウエー海戦大敗(戦局逆転)
昭和18年  ガダルカナル島撤退、アッツ島玉砕、イタリア降伏、学徒出陣
昭和19年  5月明主様箱根へ移転、サイパン、テニアン、グアム島玉砕、レイテ戦、神風特別攻撃隊編成、B29の東京初空襲
 翌年、沖縄戦、主要都市大空襲、原爆などの悲劇を経て終戦


 このように軍部の台頭、戦時統制、総力戦と言う時代の流れは、治安当局による新宗教に対する徹底した弾圧の時代でもありました。これに対して明主様も「大日本健康協会」を創立、医術、治療面を宗教から分離、独立させたり(S11)、玉川郷を宝山荘と改め宗教色を薄めたりの方策をとりましたが、結局「大日本観音会」「大日本健康協会」は共に解散消滅(S11)に至ります。
 これによって収入の道は絶たれ、借金返済や生活費の為大森の「松風荘」を\6000で売却、当座の生活費とされました。
さらには大宮事件第一次玉川事件(S11)による、留置・厳しい取調べ、家宅捜索等も受ける事となります。
 それでも明主様はめげず!「観音百幅会」を発足させ、100体の観音像を明主様の芸術作品として下付するという方法をとり、信者はさながら隠れキリシタンのようにその信仰を貫いていました。
 その後病気の治った有力者の力添えなどにより、昭和12年〜15年の約3年間の治療活動再開の期間をへて、第二次玉川事件(S15)により、治療の廃業となりました。



いや〜〜跡形もありません(涙)!
しかし五島美術館に続くこの道は、当時の地図と比較すると場所は変わっていないようです。
つー事は、この道の西側(写真左)が宝山荘の敷地となり、横幅もだいたい2つ目の路地を越えたお宅くらいまであったものと思われます。そうなると、写真手前のお宅あたりに表門があって、その隣のお宅あたりから自然農法試験畑(庭木がシゲルぞ〜!)、その次の路地あたりにかつてみろく塔が立ってたのかなぁ。。。と勝手な想像ができます。そしてこのあたりには、私服刑事、特高警察がうろうろと。。。うわ〜白昼夢だ〜! 

住宅地西奥路上より五島美術館庭園東南端をみる。
おそらくこの道路上も、かつて母屋の一部があった場所だと思われます。
母屋は、お子様がた、奉仕者、信者の部屋と、療術施設からなり、藤棚のある南側の一番良い所が待合室、隣に浄霊室という患者ほんいの間取りでした。
※昭和12年〜15年までの治療活動再開の時期「岡田式指圧療法」は奇跡の療術として大発展をとげました。しかしその事はかえって当局を刺激することとなり、昭和15年11月の第二次玉川事件、廃業へと繋がってしまいました。時はあたかも「隣り組」制度、「大政翼賛会」発足と、日本のファシズム体制強化の時期の事でありました。 

新しき 世ぞ生まれんとして国悩み 人は喘ぎて尽くるを知らず (S15)
如何ならん 病きとても癒す術 もてど施すよしなき世にもや (S15)
超人の 力秘しつ人の為 世の為揮う時ぞ待たるる (S17)



 昭和12年10月、治療活動再開当初は新聞で叩かれた為もあり、日に数人程度の患者さんしか来なかったそうです。しかし半年程経つと、日に2,30人の患者さんが訪れるようになりました。そこで受付係に井上茂登吉先生、下浄霊には木原義彦先生、川上吉子先生が当たられ、その後に明主様が治療される体制になりました。そして昭和15年には日に50人、100人を超える日もあったそうです。
この頃の明主様のご日常は、7時に起床されて朝食をとられると、庭を歩いて草花を採り観音像の掛けてある床の間に花を生けられ、9時頃から治療に入られました。この後は昼食も摂らず3時にお茶とお菓子を召上るだけで6時半か7時までひたすら治療をされました。そして治療が終わると入浴、夕食を摂られ、今度は面会や揮毫、おひねりつくりなどをされ、おやすみは大抵2時頃だったそうです。
この様な激務で明主様のお身体も疲労の色が濃くなっていました。ある日治療を終えられ富士見亭に戻られると、酒を飲んで疲れを癒そうとされましたが、猪口に一杯飲むか飲まぬかの内に顔面蒼白となって、脳貧血で倒れられた事もあったそうです。
しかし昭和15年も後半には再び警察の干渉が始まり、患者はこれを恐れて遠のいていき、最終的には第二次玉川事件によって廃業となってしまいました。


廃業により又もや収入の道を絶たれ、経済的にも辛い状況となりました。しかしその苦しみよりも、救いを求める人々にその力を揮えない辛さは、いかばかりだったでしょう。
しかし明主様はこの時を無駄にせず、いやむしろ活用し、富士見亭にて日夜揮毫、執筆にあたられ「明日の医術」など書籍類の発刊発行、自然農法の研究、治療師の育成などに打ち込まれました。
またホテルや料亭での「会食会」、各地へのご旅行を頻繁にされたのはこの時期です。これは監視下にある宝山荘を出ることにより、当局の執拗な干渉、弾圧を避ける意味合いをもち、印刷された御教えもごく限られた当時、明主様に会い、直接じっくりご指導頂くことは、布教師、信者にとって何にも変え難い指針であり、救いでありました。
またご旅行で立ち寄られる場所の中には、神業上重要な意味をもつものもありました。

「昭和15年12月1日いよいよ治療をやめ、いわば一個の浪人となったのである。それはむしろ霊的にみて、一段階上った事になるので内心は喜ばしく思ったのである。というのはそれまで治療という極限されたいわば、第一線における体当り的兵隊の仕事であったからでもある。」
昭和24年12月30日


廃業し治療活動(表立った)は不可能になりましたが、これは御神業上新たな段階へのStep Upでありました。
昭和15年12月23日に新体制を発足。翌年2月の立春よりは、それまで明主様みずからおこなわれていた講習会や、お守り(記念品)の下付を、数名の高弟に任せられるようになりました。この事は今まで東京中心の布教であったものが、広い地域のそれへとゆるされた事をも意味し、また各地で活動されている高弟のもとでは、多くの素晴らしい人材が生まれ育ち、戦後の「日本観音教団」の爆発的発展、そして現在の各教団の礎となりました。
写真は2つ目の路地、この辺にみろく塔があったのかなぁ。。。
突き当たりは美術館東南端。宝山荘敷地の奥行はこの倍位ありました。
そして後年3200坪の広大な敷地は、30pに満たない「藤壷」ひと壷にかえられました。


このようにして戦前、戦中の弾圧最もきびしき時期を宝山荘にてお過ごしになられました。そのような中でも多くの有能な人材と、自然農法の確立という収穫を得られましたが、そこには命がけの信仰を貫かれた先達の方々のお働きが大であったという事も忘れてはならないと思います。

戦後、大発展を遂げる事となる「日本観音教団」発会式は、ここ宝山荘にて昭和22年11月11日盛大に執り行われました。



ふだんなんとな〜く信仰している小生ですが、発会、解散、消滅、廃業、発展!激動の宝山荘時代の明主様とご先達のことを、時々思い返さねばならないですね。
今回は、らしからぬかつお式でした。



CAUTION!



多摩川べりに42階建の高層マンションが建設されて玉川郷跡から富士山が見えなくなってしまいました!今後も大規模な開発が予定されており、明主様のお散歩コース多摩川べりの姿も大きく変ってしまうようです。。。
でも五島美術館すぐ横の富士見橋(関東の富士見100選)からは、ハイこの通り!
素晴らしい富士山が望めますョ!


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