大宮周辺
見の限り 青葉若葉の繁らへば 中の一条(ひとすじ)白き途(みち)みゆ
昭和11年5月5日
大宮は現在さいたま市(政令指定都市)に編入され、県内一の商業、業務地区を擁する、人口約10万の大宮区となっています。 しかし大宮と言えばやはり古代より区内にある「武蔵国一宮・氷川神社」が有名です。江戸時代にはその門前町として栄ました。大宮と言う名前自体が神社を「大いなる宮居」とあがめた事に由来しているそうです。 小生もまずは氷川神社にご参拝したいと思います。 写真の神社参道は一ノ鳥居から約2kmもつづいています。 |
青杉の いと青々しさの道抜けて 氷川の神宮(みみや)に詣でけるかも
昭和11年5月5日
三ノ鳥居を入ると急に厳粛な雰囲気に包まれます。 |
そして神橋まで来ると美しい楼門が見えて来ます。 |
氷川神社の創建については諸説ありここでは略しますが、2400年以上前に創建された大変古い神社で、聖武天皇の時代に武蔵国一宮と定められました。神社の格式は高く、「延喜式神名帳」という日本最古の神社の戸籍簿のようなものでは「名神大社」に列せられています。その後も鎌倉、足利、徳川の各将軍家の尊崇を集め、明治になってからは武蔵野国の総鎮守「勅祭の社」となり、同4年「官幣大社」となりました。 主祭神は須佐之男命(素盞鳴尊)、稲田姫命(くしなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱であります。 |
楼門を入ると舞殿、そして拝殿、本殿となります。 現在の社殿・楼門は昭和15年に建て替えられたものですが、明主様は昭和17年にも訪れられた記述がありますので、出来たばかりのこの社殿もご覧になっている事でしょう。 社伝などからは、当神社とこの地域全体には出雲族との深いつながりがあった事がわかります。主祭神からもその事がうかがわれます。 |
「関東では日枝神社と、大宮の氷川神社が関東2大官幣大社であります。これが御夫婦神ともなるのであります。観音会でも地方としては大宮へ支部が出来たばかりであります。これも不思議な因縁であります。」 昭和10年9月5日 |
※「古事記」「日本書紀」によると、当社御祭神素盞鳴尊と稲田姫命は御夫婦神です。日枝、氷川両社の関係については岡田師独自の解釈によるものです。
夫婦とは、両社御祭神のような関係なんでしょうか。。。
左は昭和3年の「大日本職業別明細」です。中央にある太い道が中仙道、右へ2本目南北に伸びる太い道は参道で、その先右上に氷川神社@があります。周りには運動場や、ホテル、料亭などがあります。 「大日本観音会」大宮支部は昭和10年3月発会。氷川神社境内の一隅「清水園」という料亭の離れを借りていたという事なので、ちょっと探してみると図中右下の参道沿いに、四角で囲われて「清水園」Aとありました!画面では見づらいですが、この周りはさらに点線で囲まれていて清水公園となっています。かなり広い敷地を有していた事が想像されます。大小の離れがいくつも在った事でしょう。 「清水園」前の道を南西(左)へちょっと行った所に太い□で囲まれた部分がありますが、ここが大宮警察署Bです。つまり大宮支部と警察署とは同じ通り沿い、目と鼻の先にあったという事がわかります。 |
大宮支部立寄信者二,三十人 引連れ参拝なしにけるかな
清水園にて夕飯喫しぬ信者には 半紙へ略書なして与へける
昭和11年5月5日 日記
「大日本観音会」11支部のひとつ大宮支部のあった「清水園」です。現在は「ラフォーレ清水園」として結婚式や各種宴会場として同じ場所で営業されています。 ここ大宮支部は新聞配布などの地道な布教活動の成果もあり、発会8ヶ月後の昭和10年11月11日の玉川郷における初の秋季大祭には、バス1台を借り切って参拝するという盛況ぶりでした。おそらくこれがバス参拝の第1号ではないかという事です。 |
麦青き 畑など見つつ清水園に 来りて躑躅(つつじ)の花に足(た)らへる
清水園 今し躑躅(つつじ)の咲き盛り 夕陽に映ゆるとりどりの色
藤躑躅 目さむるばかり花盛り 天国の苑に遊ぶ思ひす
昭和11年5月5日
大宮の武井方三人警察署へ 検挙されたる報に驚きぬ
大宮へ清水を遣りて事情をば 調べて見れば療術の事なり
昭和11年8月3日? 日記
そして翌日の4日には、会主である明主様のところにも召喚状が届きました。そして8月5日。。。
埼玉県大宮警察の招致にて 清水を連れて午前赴く
昭和11年8月5日 日記
ここで明主様は特別高等警察の刑事によって、厳しい取り調べを受ける事になります。
では当時の取調べとはいったいどんなものだったんでしょうか。
「警察へ到着、しばらく待った後、その頃の一大勢力であった特高と呼ばれた主任の前に呼出された。
主任いわく「お前は大日本観音会の会長か?」
私「ハイ、さようであります」
主任「お前はいつも簾(みす)の中にいて生神様になっているんだろう」
私「トンでもない、そんな事はありません」
主任「虚言うな、お前が生神様なら罰をあてる事が出来るだろう--」
と言って傍にいた刑事と名乗る二人の男に眼くばせした。その頃の私は頭髪を相当伸ばしていたので右の二人は左右から髪の毛をイヤという程引張るので、痛さに堪え兼ね詫びたので、彼らもようやく手を放した。
主任「武井の家の部屋に懸っていたお前の霊写真という変な写真はアリャ何だ、お前が作ったのだろう。それを詳しく話せ」
私「あれは作り物ではありません、一昨年十月一日東某という人が訪ねて来て、種々宗教上の話を取交し、最後に私を写した。ところが御覧の通りああいう不思議な霊写真が出来たのであります」
その時私の周りを取巻いていた警官の中大きな男が二人、イキナリ剣術の竹刀を執って身構え、
「きさまは吾々を騙す気か、今言った事は嘘だ、もう一遍言ってみろ、きさまの腰骨をブッ砕く」
と言って脅すのである。私は吃驚した--本当の事を言えば腰骨を砕かれ、どんな眼に遇うか知れない、あるいは不具にされるか分らない、といって私は嘘を言うのは嫌だ--という訳で、一言の言葉も発する事も出来ず、やむを得ず沈思瞑目していたので、彼らも手の施しようがなく再び訊問(じんもん)は開始された。」
昭和24年12月30日
戦前の取調べとはこの様に暴力的で厳しいものでした。そしてこの辛い思いをされた、旧大宮警察署はすでに移転しており、現在は保険会社のビルになっています。 明主様への厳しい取調べは尚も続きましたが、先程の暴力を振るった刑事の1人は、「俺は頭が痛い、変だな」と言って外へ出て行ってしまうという不思議な事などもあって、いつの間にか主任1人になって聴取書を作り上げました。そして捺印を強く迫られましたが、その内容は全く事実に反するもので、抗議をしたいと思いつつも身の危険を感じてやむなく捺印をされました。しかしこの書類はその後警視庁に回された事でブラックリストに載り、終戦までの約10年間明主様を事ごとに苦しめる事となります。 |
「右のような訳で私が常に思っていた事は、「自分は人類社会のため、これ程立派な行いをしながら、これ程圧迫されるという事は、実に残念である、しかしこれも神様から修行させられるのだ」--と思い直しては腹の虫を制えつけたものである。」
昭和24年12月30日
取調べ峻厳(しゅんげん)にして夕暮に 漸く終わり署に逗(とどま)りけり
昭和11年8月5日 日記
こうして取調べを終えられた明主様は一晩留置されました。この時同様に留置されていた武田先生は当時を回想して、 「留置所は、5、6人入る雑居房が4つ、5つ並んでいましたが、私と支部長とは、間に1つおいて、別々の房に入れられました。やがて房の前の板の間に、2枚の畳がしかれ、そこへ大先生(明主様)が入って来られました。その畳は大先生用の特別席だった訳です。横になって寝てもよかったのですが、大先生は朝まで畳の上へ座ったきりでした。その場所は私の房の斜め前だったのでよく見えました。もちろん看視の巡査がいたので、話は何もできませんでした。」と述べられています。 これは教団に対する初の弾圧であり、後に大宮事件と呼ばれるようになります。 |
取調べ相済み午後の三時頃 帰宅をすれば一同喜びぬ
昭和11年8月6日 日記
「大宮警察の調べは前述の通りで、一晩ブタ箱に容れられ、翌日釈放されたのである。大宮警察の事から、私は警視庁からインチキの烙印を捺された結果、とうとう所轄警察玉川署へ引致(いんち)され、11日間のブタ箱入りとなったのである。もっともその当時大本教を脱退した元幹部級の者を取調べる方針のためもあった。」
昭和24年12月30日
こうして大宮事件の4日後の昭和11年8月10日、今度は地元警察の玉川警察署にて再度取調べ留置され、玉川郷は徹底的な家宅捜索を受ける事になります。
(「上野毛周辺」へ つづく。。。)