上野毛周辺



宝山荘(玉川郷)のあった上野毛(かみのげ)周辺の地図です。昭和12年修正測図ですから丁度治療が一時解禁された頃のものです。地図左下@宝山荘の場所はまだ前の持ち主の田邸になったままです。。。しかし家の形状はほぼ宝山荘母屋のようになっていて当時の航空写真測量もなかなか〜って感じです。@と書いてある辺りに富士見亭がありました。
さ〜てどこから行こうかなぁ。。。ではまずお散歩コースへ!


Aこの坂は宝山荘すぐ横の道、写真右の崖上が旧宝山荘敷地です。地図と比較してみるとおそらくこの道は当時のままでしょう。下駄をはいて力強く散歩される明主様が思い浮かびます。今はこの道をまっすぐ500m程行くと多摩川に出ますが、旧地図によると坂下で突き当たりT字路になっています。もしかするとまっすぐ果樹園の農道を行かれたかもしれませんけど。


B坂の途中、宝山荘の真下にある稲荷神社(北野神社)です。社殿の裏から右の崖上にかけて宝山荘の敷地でした。
神社境内はけっこう広く、掃き清められています。神主さんらしき人がいたので 「こちらにはお狐さんいらっしゃらないんですねぇ?」と言うと「狐のいない稲荷もある。」と一言。確かに!と思って退散すると、入れ替わりに赤ちゃんを抱いてお宮参りにみえたご家族あり。ああこれでお忙しかったんですね、すいませんでした〜!でもご家族には。。。本当は五穀豊穣のお願いをするといいんですよ、などと余計な事を言いたくなっちゃう小生がおりました。。。(言いませんけど)
でもなぁ。。。狐のいない稲荷様だしぃ。。。


「昔産土神社を造営した際、祭神としてその近くにある神社から、分霊を仰いだり、また稲荷様を昇格させた場合もある」
昭和24年7月23日


いや、まてよぅ。。。もしかすると。。。と思って、境内を掃除している方にチョッと質問してみました。
「この神社のお祭りって何時なんでしょうか?」 「秋なんですが。10月の土日、第何。。。」 「昔は10月10日では?」 「ええ、昔は10月10日でしたよ」 「有難うございました!」


「も一つおもしろいのは、10月10日の祭日は玉川の産土様のお祭りだそうで、別に私は知っていなかったんですが、偶然にこれが一致したんです。で、これは神様のほうでは玉川郷のお祭りが判っていて、これを決めたもので--」
昭和10年10月6日 御講話

これは玉川郷に引っ越す際、つまり「大日本観音会」総本部発会式についての事前の御講話です。戦前もお祭り日かどうかは不明ですが、もしかすると昭和10年10月10日は、上の屋外祭壇で発会式!下の産土神社ではそれを祝うかのように地元民のお祭りとなっていたかもしれませんね。
 いずれにしても、この神社のすぐ後ろと上で行われていた、初の自然農法実験栽培では、こちらの神様もご活躍されたのは確かでしょう!

C旧地図上の突き当たりを曲がると用水路のある道です。ここは家が林立したり、水路がコンクリート整備されたりして様変わりでしょが、道と水路の場所は変わっていないようです。今でもクルマさえ来なければとても気持ちのいい道です。


多摩川べりD、勿論明主様のお散歩コースです。宝山荘時代は警察ににらまれたり、お金にも困ったり、救いの力を揮えず、色々お辛かった時期です。それでもグチひとつ言われず、いつも明るい未来にばかり面を向け、きょうは西 
あすは東と散歩などされながら、二代様に将来の抱負を楽しげに語られる明主様でした。
「いまに美術館を造るから見ていなさい」 「それはいいですねぇ。。。」
 すっごい夫婦の会話!借金はイッパイ、収入は不安定、おまけに警察ににらまれて、二代様が雲をつかむような話とおっしゃるのも無理はありません。いや、普通だったら。。。
でも出来ちゃいました!10年そこそこで。正に「かみわざ」ですね!


ここは地図の左上のE美術学校、現在の多摩美術大学です。この日は個展があったので入れました。Lucky !
明主様は普段お子様方を自由にさせていながらも放任ではなく、教育にも熱心であったそうですが、こちらへも幾度かご夫婦で足を運ばれ、勉強ぶりを見ていかれたようです。
これは緊張でしょう!父上とはいえ、東京美術学校中退、古美術の鑑識眼をもち、蒔絵製作に習熟し、その後デザイン力で一時代を築かれた方ですからねぇ。
小生の場合だったら「岡倉天心って知ってるか〜!」って自慢するくらいでしょうけど。


次は地図のやや中央下のF「文」玉川小学校です。世界救世教三代様ご卒業!父兄参観やら運動会とかあったのかなぁ。。。
それよりここまでくると、ただのオッカケだなぁ。。。これ位にしときます。


左にあるのが現在の上野毛駅(H19)、右側の道を渡った奥のグレーの工事フェンスのある場所に当時駅がありましたG。実は現在駅の移転工事中で平成20年初頭には昔の場所に戻ります。
 療術禁止の時代には、明主様の生活も大変お苦しかったようです。そこである治療師は自分の患者をこっそり明主様に回し、少しでも増収をと考えられたそうです。明主様はここから電車に乗って本所、深川辺りまでよく治療に行かれていたそうです。雪道で転んだ事もあったり、夜遅くお帰りになる事も珍しくなかったという事です。
この他にも、ご家族で食事や買い物、映画鑑賞に出かけられたり、楽しい思い出もイッパイ詰まった駅だった事でしょう。


H天祖神社。確か松風荘の近くにもあったなぁ。と思いつつご挨拶して参りました。都内に38箇所あるそうで、明治初年、国の政策として皇室との関係上「宮」の字が使えなくなり改名されているようです。「天」は天照大御神を意味し、「祖」は先祖神(氏神)を意味しているという事です。御祭神はもち天照大御神様、そして倉稲魂命(うがのみたまのみこと、稲荷神)様の二柱です。玉川警察署に行く途中にあります。
ちなみにこちらのお祭り日は10月1日です。


やって参りました玉川警察署!I(以後玉川署)旧地図右上にあり、今も同じ場所にあります。
最初に玉川署から明主様へ出頭が命じられたのは、昭和11年5月27日でした。この時は刊行物に対する事情聴取に過ぎず2日出頭して終わりました。しかしそれ以後は内務省直轄の秘密警察「特高警察」による強迫的干渉が始まりました。その執拗な干渉に屈するかたちで宗教部門「大日本観音会」は7月1日、断腸の思いで解散となりました。この日の日記にはただ1首


月次の祭典の後観音会解散の理由詳しく弁ぜり
                 
昭和11年7月1日 日記


とのみ記されています。
そこで治療部門である「大日本健康協会」に力を注ぎ集中講座など活発な活動をしていたところ、同28日警視庁より突然「療術活動の禁止命令」が出て、もうなんにも出来ない状態となり、同協会は自然消滅と言う事になってしまいました。


晴天のヘキレキの如き警視庁より療術禁止の命令来りぬ

 命令の理由は更に解らざり其虐政(ぎゃくせい)の嘆かれるかも
                         
昭和11年7月28日 日記


そして8月3日、前記の大宮事件となり同5日、6日の取調べ内容を受けて昭和11年8月10日、明主様は医療妨害の容疑でここ玉川署にて11日間の留置、取調べを受け、さらに数名の高弟も留置された上、玉川郷は家宅捜索を受けることになりました。これが後に第一次玉川事件と呼ばれるようになった事件です。
この背景には当時の政策として国家神道など神様を都合よく利用する事で、国民及び植民地の統制を図ろうとしていた側面があり、小さな新興宗教といえども後日力をつけ、当時の政策に都合が悪くならない内に潰してしまいたい、という政治的な意図がありました。
日本が戦争に突き進み、敗戦へと至る流れの中に邪神の暗躍を感じざるおえません。


この様な時代の流れ、警視庁の方針にのっとり、地元警察の玉川署が明主様の動向に常に目を光らせていたのは当然のことでした。
その後昭和12年10月より約3年間の治療活動再開の期間がありましたが、特高警察及び玉川署の監視は継続され、昭和15年11月28日には、突如玉川署への同行が求められました。


その時は物々しく警官二名が付添い自動車で警察へ送り込まれた。私は何事かと思ったが、署へ入るや主任らしい者がイキナリ、「君は医師法違反をやったね」というので、私は面喰いながら、
「ソンな事はあるはずがない、違反になっては大変だから、充分注意している」
――という言訳を聞くどころではなく、彼は私を抱えるようにして留置場へ打(ぶ)ち込んだ。私は何が何だか判らない、すると三日目であった、主任は私を一室へ呼び訊問を始めたが、その時彼が言うには、
「君はある病人に対し、医者へ行かなくても自分の方で治ると言った覚えがあるだろう」
私は「それは確かに言いました、嘘ではない、事実だからです」というと
彼「ソノ言葉が立派に医師法違反ではないか」と言うので、私は唖然とした、そこで
私は「ソノくらいの事は療術業者は誰も言いますよ」というと、彼は、
「ソレは小規模でやっている者は大目に見るが、君のように堂々たる門戸を構えてやっている以上、社会に害を及ぼす事は大きいと見るから、看過する訳にはゆかない」というので、私はどうも彼の態度から見て、
「キット営業禁止までもってゆくに違いない」と推察したので、
「ヨシ先手を打ってやろう」と、私は、
「そんな事で医療妨害の罪に問われるとしたら、到底持続してやる事は出来ないから今日限り廃業します」と言い放ったので、今度は彼の方が唖然としたようであった。それが十一月三十日である。」
昭和24年12月30日


これが第二次玉川事件と呼ばれる事件です。そしてこの後は先にご紹介したように、終戦まで当時出来うる最大限の神業と、戦後の教団の準備をなされながら時を待たれました。
 玉川署の監視は昭和19年5月、明主様が箱根へ移転された後も、宝山荘を引き継がれた高弟渋井總斎先生を対象に終戦までつづけられました。




之からだ 出すぞ 俺様の 底力   自観


この笑い冠句の色紙は、昭和15年12月1日に明主様がお詠みなり、自ら御揮毫、参集した信徒にご下附くださったものです。
この日即興的にお詠みになった笑い冠句は他に。


これからだ 開けるぞ ビックリ 箱の蓋
これからだ 光るぞ 閻魔の 大眼玉
これからだ 揮うぞ 吾輩の 大手腕
これからだ 出すぞ 観音の 千手の手


などがありました。第二次玉川事件の翌日、廃業の日の笑い冠句の「冠」を「之からだ」にされた明主様。
絶対に負けないという、強い意志と、確かな自信が感じられます。
しかし官憲の目が光るなか、この日に参集した信徒はわずかに27名だったそうです。




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