大正8年(1919)6月22日 読売新聞 朝刊 5面


倉庫銀行取付騒ぎ
預金者黒山の如く集まり漫罵(まんば)す
委員交渉てん末は今朝発表の筈

 日本橋蛎殻町1-3株式会社倉庫銀行は21日午後2時頃から突然取付けを受けた、事の起こりは数日前から問題を起こしている株式仲買人山田商店の振出した約手百二十萬円を支配人の金谷蔵次郎氏が引受けたのに原因している。同行は資本金六十萬円で頭取は中村清蔵氏嗣子郁四郎氏であるが此の日誰云(い)うとなく「倉庫銀行が危ない」と云ひ出した者があったので深川堀川町の同支店は忽ち黒山の如き預金者に押し寄せられ支店は止むなく閉鎖するに至ったために其の響きは本店に及び午後2時頃から取付けの預金者が続々押し掛けたが銀行では金庫の扉を固く閉ざして一文も支払わぬ。火の様に怒った預金者は刻々に集まり来ては悪声漫罵が起る、銀行員は汗みどろになって弁解したが、糠(ぬか)に釘も同様で騒ぎは午後4時半に及んだ「私はたった先刻五千円を預入れた者ですが・・・」とて大野龍之助氏は起ちて一千円以上の預金者三十名を委員とし警官立会の上金庫を封じ銀行の重役に会ひ解決を迫ると同時に親銀行の明治商業銀行に交渉し、其のてん末を22日朝10時に同行で報告するからと預金者一同に図り5時漸く一般預金者は引取った、--中略--由来同行は米屋町の仲買人に取りては小口の預金出し入れに極めて好都合なので多くの預金者を有っていたが 今回の取付け事件を起し仲買人の恐慌は大したものであると云ふ 尚ほ同行の前には「整理のため向ふ一週間休業 仕(つか)り候」と記してあった。




これに先立つ10日前。。。大正8年(1919)6月11日
奥様のタカ様 死去 (御子様も死産)



初七日を済ませ、まだ悲しみの最中だった頃の支払停止でした。。。明主様がこの騒ぎに気付かれたとしても自らが対応に行ける状況にはなかった事が想像できます。担当者の某氏は預金回収不能の事実を隠しつつ自ら挽回をはかりました。。。


※株仲買人とは、証券会社が無かった頃に顧客に委託されて株の売買・取引を行ったブローカーですが、記事の内容から当時の仲買人がどんな人達だったのか何となく伝わってきます。以後の恐慌の時にも度々この人達が登場します。
明主様は倉庫銀行の大口預金者だったので、その信用を後ろ盾に、この金融のプロである仲買人に対して金融業をされました。この話を持ち掛けた某氏には実印まで渡して信頼されましたが、新聞社の設立どころか窮地に陥る原因になってしまいました。
それでも後に某氏が亡くなった際には、葬儀に参列されたそうです。


しかしこの窮地が「入信の動機」にもつながり「借金哲学」を生みました。それから 「悪銭身に着かず」S24.6.25、と言う事も忘れてはなりませんね!


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