八重洲周辺


お父様が亡くなり明主様は八重洲周辺に移り住まれました。それはたまたまこの地に小間物屋の良い売り物があったという事からでした。
そして実業家時代の23歳〜41歳までの間、この周辺で過ごされています。ではこの頃の明主様ってどんな方だったんでしょう。

※八重洲通りより東京駅八重洲口をみる。


「私がいかに唯物主義者であったかという事は、40歳位まで神仏に決して掌を合わせた事がない。何となれば、神社の本体などというものは、大工や指物師がお宮と称する檜(ひのき)で箱様のものを作り、その中へ鏡か石塊あるいは紙へ文字を書いたものなどを入れる。それを人間がうやうやしく拝むという事は、およそ意味がない。馬鹿馬鹿しいにも程があるという考え方であったからである。また仏にしても、技術家が紙へ描いたり、木や石や金属等で観音とか阿弥陀、釈迦等の姿を刻んだものを拝む。しかも観音や阿弥陀等は実在しない。いわば人間の空想で作り上げたものに違いないから、なおさら意味がない。いずれも偶像崇拝以外の何ものでもないというのが持論であった。その頃私はドイツの有名な哲学者オイケンの説を読んだ事があった。それによれば「本来人間は何かを礼拝しなければ満足が出来ないという本能を有している。そのため人間自身がなんらかの偶像を作りそれを飾って拝み自己満足にふけるのである。その証拠には祭壇へあげる供物は神のほうへ向けずして人間のほうへ向けるという事によってみても判るのである」という説に大いに共鳴したのであった。」
昭和22年2月5日

「無神論のカチカチだった。金が儲かったら、共産主義を助けようと思って、共産主義のシンパ(同情者)あれをやろうと思った。だから、神様なんか信仰しているのは癪(しゃく)にさわってね。ああ馬鹿な奴がと思っていたけれど、私は悪いことはしなかった。良いことはしたかった。良いことをするのが本当だと思っただけで、神ということは――神なんかあるものかと思っていた。」
御垂示 昭和26年11月5日




こらりゃひどい。。。と言うか筋金入りです!幼少期に不動の社でひとり絵など描いていた頃も、青年期に浅草寺や水天宮の近くで過ごされていた頃も、青春時代に本願寺の近くにいた頃も、ぜ〜んぜん興味なしだったとは!こんな唯物主義者の明主様と言うか岡田茂吉氏も、実業家としては卓越した才能を発揮されました。丁稚奉公いまだ全盛の頃に、月給制(固定給+歩合制)の導入。社員の定休制、夏休みと福利厚生施設の開放。能力による人材登用と会社の組織化、合理化。そして流行を作り出すデザイン力と新製品の開発力。また社員には洋服を着せて、当時高価で珍しかった自動車までお持ちだった。なんか六本木ヒルズの某IT関連の青年実業家を思い起こさすような勢いがありますよね。ただ大分違うのは、お金が全てじゃなかったところと、人並み外れた正義感の持ち主だったという事ではないでしょうか。苦学生や病気の元従業員などへ無償の援助を続けられたり、クリスチャンでもないのに救世軍に定期的な寄付をされていたり、弱きを助ける共産主義に援助をしなければと本気で考えられたり、社会を改革する為に新聞社を作ろうと考えられたり、実業家明主様もやさしく、まっすぐで、スケールがでっかい!やっぱり心服してしまいます。
それではそんな明主様の、かつてのお店の場所を探してみましょう。


これがお店のあった西仲通り(現、柳通り)です。当時の地図と比較してみると通りの位置は変わっていないようです。中央通りと外堀通りに挟まれたこの通りは、駅ビルも無かった当時特に賑やかな商業地域だったことでしょう。そこに父喜三郎氏の遺産\3500を元手に「光琳堂」という小さな小間物屋を開いたのは、明治38年(1905)明主様23歳の頃でした。


明治42年測図
@光琳堂 A当初岡田商店 B渇ェ田商店
Cご自宅 D太田家

「東方之光」誌の略図、住所、そして「路上」との記載を考えると、この交差点右路上、横断歩道辺りにお店があったと考えられます。「光琳堂」は9尺(約2.7m)間口の住居兼店舗の小さな借家でした。2.7m?測ってみるとかつお's Roomの横幅とほぼ一緒でした。狭っ! おそらくは母上と親戚の子と3人で、家財道具と在庫品のあいだで寝起きするような状況だったことでしょう。
小間物屋って今女の子が集まってる雑貨屋さんみたいな所かな?そこで23歳のYOUNG茂吉氏がカッコヨク商売を。。。でも自作の蒔絵も商品とされたくらいですから、もっと芸術性が高かったかな?
ところが実際は、元々弱かった御身体ゆえに開業半年頃には忙しさと緊張からか重い脳貧血となって、めまいや口がきけなくなったり、指の筋を切り蒔絵製作を断念したりと、苦難と挫折の中でのご商売だったようです。それでもセンスの良さと努力と正直流商法、そして母の助けもあって光琳堂はしだいに繁盛店となり、人を雇い、店より大きい住居を別に借りられるまでになったそうです。



似たような写真で恐縮です。だって同じ通りのすぐ近くなんですもん。写真奥側に住まいとされた家(後の岡田商店)があったと思われます。ここで明主様は23歳にして岡田家分家の届け出をされ戸主として独立されました。(やる〜ぅ!)しばらくすると光琳堂は母上と店員に任せ、自らは住居の一部を店舗として小売より大きな商いである装身具の卸問屋「岡田商店」を開業させました。光琳堂開業から約1年半後の明治40年2月のことでした。(大胆だなぁ〜!)ここからが明主様快進撃の始まりです!その第1弾が同年6月の相原タカさんとのご結婚でした。(そうきたか〜!)これで名実共に独立されて、先にご紹介したような経営手腕と発想、それに妻タカさんの献身的な努力によって、10年位で当時異数の成功者として15万〜20万円の資産家となられました。(S55年物価換算で3500円が850万円でしょぅ。。。(景仰より)。。。15万円としてもぅ。。3億6千万円以上?! で、平成19年換算するとぅ。。♂☆〒◎△※◇♀@≧ ドッカ〜ン!!!\(◎o◎)/)
こうして実業家として成功された明主様でありましたが、この岡田商店開業からの10年間は次から次へと病気にかかり、後に「婦人病以外は大体やってる。」と言われる程でした。特に腸チフスにかかった時は医者の誤診で肺炎の薬を飲まされ、よくならず遺言をした程でした。



「自分はもう駄目だから、自分が死んだら商売は誰々に任して、こういうようにしろ」と言ったくらいですから、ぜんぜん生の執着が取れたのです。--中略--担架に乗って担いでもらって行ったのです。そして寝ながら町を歩いている人を見て、これで人を見るのも見おさめだと思ったのです。そうしたら夢とも現(うつつ)ともなく墓場が見えてしようがなかったのです。それで自分は駄目だとよけい思われました。--中略--確かにチフスだということで、チフスの手当てをしなければならないということになったのです。チフスは絶対流動物であって、チフスには薬はないのです。それから絶対流動物で、だんだんよくなって治ったのです。そういうようで、生の執着を取ったことがよかったのです。」
御講話 昭和28年6月25日


また、かかった病気の中で特に苦痛がひどく、長く続いたのは歯痛でした。


「私は二十数年以前慢性歯痛に悩まされた事がある。それは四本の歯が痛み続ける事一年有余に及んだのである。一時は痛苦のあまり頭脳に変調を来し、発狂の一歩手前とさえ思われたのである。ついに最後に到って幾回か自殺(絶対にしてはいけない)を企てたるにみてもいかにはなはだしかったかという事が想像されるであろう。そうしてこの原因が全く薬毒の為という事が判ったのであるが、それは一年有余苦しんだ揚句、ある動機によって判明したのであった。」
昭和18年10月5日


この10年間の上記のような経験や、過去に菜食で結核を治された経験などから、薬の毒性についてはこの頃からお気づきになられていたようです。



光琳堂開業以来ほぼ10年、度重なる病気や母の死などに直面しながらも、歯痛の苦しみの最中に発明した「旭ダイヤモンド」の大ヒットなどで岡田商店の名は不動のものとなり、従業員も増えて店も手狭になっていました。そこでまず店と住居を別にすべく、ここ中央通りをちょっと入った一等地旧大鋸町(おおがちょう)に土地を購入、家を新築して移られました。ここは広い庭のある大きな日本家屋だったそうです。事業は順調!明主様のお身体も薬毒を知ってから好調!全てが順風満帆かと思われた大正8年、妻のタカさんは妊娠をしたものの腸チフスにかかってしまい、ここで女の子を早産し、後に母子共に亡くなられてしまいました。日頃からけっして弱音を吐くことのなかった明主様もこの時ばかりは「片腕をもがれてしまったよ」とつぶやかれたそうです。葬儀は菩提寺の観音寺で行われました。
 ここは大通りからちょっと入っただけなのに、今もなんとなく落ち着いた雰囲気のある場所です。写真は建物が入りきらないのでブリジストン本社ビルによっかかって御宅跡を撮ったものです。
ブリジストンと言えば中島課長!この頃はどんな仕事をされていたんでしょう。。。
※高弟 中島一斎(武彦)先生



大正4年、明主様は旭ダイヤモンドを発明されました。これは薄い鏡を絹布などに貼って細かく割り、その絹布ごとデザインした台に貼り付ける技法です。
明主様は複数の特許・実用新案をお持ちでしたが、この大ヒットした旭ダイヤの技法は世界10ヶ国の特許を取得しました。そして店員をアメリカへ視察に出すなど大正初期の後進国日本にあって、一商店主の目は既に世界へ向けられていました。
旭ダイヤ大ヒットの要因はこの技法だけではなく、明主様が次々と繰り出す斬新なデザインにもありました。右のブローチも90年以上前のデザインです。洋服がまだ珍しかった時代にブローチのデザインをされた所にも先見性を感じます。
またお値段を誰もが買える位に設定したのも大ヒットの要因でした。右は復刻物で、確か\4000-弱だったかなぁ。美術館に売ってました。
当時三越、白木屋、大丸等々東西の有名百貨店で売れまくっていました!


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手書きでスイマセン!翌大正5年には左のマークを商標登録され、商品名も正式に「旭ダイヤモンド」となりました。
既に日、月、星をモチーフにされているところが、妙〜にガテンがいってしまいます。

だけど登録商標は勝手に書いちゃいけなかったかなぁ。。?



岡田茂吉氏 新聞初登場!?


大正5年4月に新居を構えられ、ほどなくして今度は事業拡張に伴う店舗の移転をされました。大正3年12月にあの赤レンガの東京駅が開業していますので、駅裏のここ八重洲周辺への経済波及効果も大変なものがあったと思われます。
この写真は東京駅八重洲中央口から撮影したものですが、「東方之光」誌の略図、「八重洲橋のたもと」との記載、さらに岡田商店の写真から角地にあったようですので、目の前のビルの左角周辺にで〜んと岡田商店新店舗が在ったんじゃないかと思われます。(記載の現住所とは異なります。)まさに飛ぶ取りを落とす勢いを感じますね。もうちょっと絞り込むと、当時の八重洲通りと外堀通りの幅員を考えてだいたい。。。


信号機が立ってる横断歩道の中州もしくは路上に、入り口を横断歩道側に向けてあったのかなぁ〜?
 ここに移転してからの岡田商店は天下の三越呉服店との取引も始まり、なお一層繁盛し、店は朝から店員と出入りの職人でごったがえし明主様も大忙しだったようです。そして資産もどんどんふくらみ大金持ち!しかしその金をどう使おうか!?成功した自分も何か社会に役立つ事をしたい!社会悪を少しでも減らしたい!正義感旺盛でさまざまな逸話を残す明主様の発想は大胆かつストレート!それにはぁ。。。権力者をつき弱きを助ける共産主義に援助するか。。。いや違う。。。そうだ、ペンは剣よりも強し!不正を糾弾する新聞の経営をしよう!その為に100万円の資金をつくるのだ!30代半ばの明主様はなお一層仕事を拡張していきました。 


しかし岡田商店の破綻は思わぬところから訪れました。100万円の資金をつくる為に明主様は、信頼する担当者を置き株仲買人に対する金融業を始めていました。アホなかつおでは理解も説明もできない、ハイリスク-ハイリターンな金融業をするうちに、後ろ楯である倉庫銀行が突如倒産。担当者は責任を感じ事実を隠しつつ挽回をはかるも、終いには高利貸しに手を出し、その結果利子が利子を生み元金に加算され、明主様の知らないところで自分名義の12万円という莫大な負債が発生していました。ようやく事実が判明したところで、一時支払いを停止にすると、高利貸しは差し押さえと詐欺の訴えをし、ここ大鋸町の私邸にも役人がやってきて家財道具などに差し押さえの封印をしていきました。この時のエピソードは御論文中にも度々登場します。そしてこの借金の返済は昭和16年まで、22年間にわたって続けられ、あの借金哲学が生まれました。また後に明主様は

「私の修行は『借金の苦しみと怒りを我慢する』というこの二つが主なるものであった」
と仰っております。


倉庫銀行の記事


明主様が突如差し押さえを受けられたのは、後に世界救世教二代教主となられる太田よ志さんとの結婚の準備が整った丁度その頃の事でした。「大きな借財ができてしまったので、このお話は取りやめにしていただきたい。」と素直で潔い申し出をなさった明主様に対して、当の太田家ではかえって信用を深めることとなって、お2人はめでたくご結婚の運びとなられました。 そうかぁ〜この手があったかぁ〜! 今更何を。。。(*^_^*)
 写真はご結婚前の二代様のお宅があった辺りです。味の素本社ビルのある場所です。。。


妻タカさんの死、そしてその直後の破産宣告という惨澹(さんたん)たる状況の中、二代様との再婚によって家庭生活は漸く落ち着きを取り戻しました。そして明主様は事業の再建に全力を尽くされるのでした。まず着手されたのは岡田商店の資金繰りの確保です。その為に店員皆で資金獲得に奔走し、全国から株式への出資を募り資本金200万円の渇ェ田商店を設立する事ができました。相変らず商品の売れ行きは好調だったので、やがては借金を完済しさらに発展しようとする起死回生の一手でした。
しかしそんな矢先のこと東京株式取引所の株価が突如大暴落、第一次大戦の好景気の反動から所謂「戦後恐慌」となってしまいます。生まれたばかりの渇ェ田商店は一とたまりもなく転落、もう二ッチも三ッチもゆかない事になってしまいました。



「その当時、私は事業に相当成功し得意の絶頂にあったが、悪い部下のため大失敗し、その上先妻の不幸にあい、破産もし、数回の差し押えをも受ける等、惨澹たる運命は私を奈落の底におとしてしまった。その結果、大抵のものの行くべき所へ私も行ったのである。それは宗教である。私も型のごとく神道や仏教方面に救いを求めざるを得なくなった。それがついに神仏の実在、霊界の存在、死後の生活等、霊的方面の知識を得るに到って、以前の自分を省み、その愚をわらうようになったのである。」
昭和22年2月5日


こうして無神論のカチカチだった岡田茂吉氏も大本教への入信によって第2の誕生をむかえる事となりました。
もちろんこの恐慌の後も、なにくそと社運挽回に大努力をされて経営を再建されるのですが、一方で大本教「お筆先」の研究にも意を注ぎ、そこから明主様の直感的な予見にもよるところで「今に東京は火の海になる。」との感覚をいだくようになり、大正12年に大鋸町の自宅を安価で売却して、大森の松風荘へと逃げるように移られました。そしてその約4ヶ月後に関東大震災があり、その難を逃れることができました。しかし再建途上にあった渇ェ田商店にとって、震災とその直後の震災恐慌は大きな痛手となり、約4年半程経営を続けられましたが、さすがの明主様も今度ばかりは金儲けがつくづく嫌になったことでしょう。また震災後の疫痢で長男を亡くされたことや、お筆先研究による自らの直感の的中は、信仰と神霊研究に没頭してゆく大きなきっかけとなりました。




ここまでが明主様の、言わば前半生とも言うべき時代でしょうか。思えばこの後の人類救済の御神業に専念された時間より長い時間を、無神論のカチカチで通されたわけですが、この間すでに、自らの病気や多くの近親者との別れを通じて病の真相、生と死、社会正義や借金哲学、美への探求など、後に明主様が説かれた事の基礎が育まれた期間であり、神のプログラムを感じてしまいます。

では次に、かつお式のプログラムにのっとり、またやや脱線してみたいと思います (ーー;)
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