昭和10年12月17日 東京日日新聞 3面
               (国立国会図書館 蔵)


類似宗教の氾濫B 大宅壮一


今売出しのスター ‘ 観音力 ,の大先生 霊妙不思議な御利益


東京も麹町半蔵門といへば、新議事堂や警視庁のすぐ近くである。そこの停留所から少し入ったところに「大日本観音会」という角柱が立っている。これが最近売出しの新しい「神様」のスターだというので23日前私は訪ねて行った。入口の標札をみると、「岡田仁斎」と大きく書いて、かたわらに「茂吉」と小さく書いている。大きい方が神名で、小さい方が俗名即ち本名らしい。案内を乞うと、二階から白い割烹着のようなものをきた女が降りてきた。それに来意をつげると、こんどは医者の手術着をきた三十あまりの男が現れて、下の座敷へ通してくれた。頭髪をテカテカと光らせて、「神様」にしては若すぎると思ったら、「大先生」は今お出かけになるところだという。するとこの男は「神様」の代診らしい。ところが、この代診先生頗る(すこぶる)能弁で、「大先生」の不思議な「観音力」について盛んに弁じ立てた。どんな病気でも二三回から四五回できっと治してみせる、その方法は患部に手をあてるだけである、では指圧療法の一種かときくと、一見それに似ているが、実際はまるでちがうもので霊妙不可思議な「観音力」だという。例えば盲腸の如きは痛くて患部に手をあてるわけにいかないが、少し離して観音を念じるとすぐ痛みがとまり、それから手をあてると直ちに病気は全治するそうだ。
更にこの「神様」の最大の特色は、別に信仰しなくても病気が治ることである。極端にいえば、内心糞食らえと思っていても、嫌だといって反抗しても、「神様」の方で「観音力」を行いさえすれば治るのである。つまり「ひとのみち」のような暗示療法でもなければ、「生長の家」のような精神分析でもなく、また普通の宗教療法のように治らない場合には信仰が足りないからだ、などと卑怯ななことはいわない、もしそうだとすれば、赤ん坊の病気はどうして治せるか、と大変な鼻息である。
そおいうあらたかな「神様」なら、ちょっとでもいいからぜひお目にかかりたいというと。それではというので二階の「大先生」の居間に通された。真中に頭髪の真白な、島崎藤村を少し若くしたような男が座って、その両側に二十人ばかりの男女がづらりと並んでいる。うしろの床の間には下手糞な観音像がかかり、その傍らに古道具屋の店先にでもあるような木彫の大黒がおいてあって、それに「みろく大黒天」という木札がついている。
まづこの新宗教をひらいたいわれをきくとこの「神様」はもと小間物商人で、大正九年に発心して大本教に入ったが、昭和三年に喧嘩して別れて間もなく、突然「観音様が私のからだの中に入られて、私を使って世界を救え」という啓示があった。現に彼の周囲のものは、彼の傍らに金色の観音が座っているのを目撃したという。彼の説によると、外の佛は皆インド産であるが、観音だけは純国産である、その証拠に観音の頭の毛はちっともちぢれていない。
それからこの「神様」がいうには、宗教とは治病以外の何物でもない、病気を治す宗教を低級だなどというのは、自分たちに病気を治す力がないからだ、つまり既成宗教はほんとの宗教ではないのである、疫痢などで医者が匙を投げたものでも、自分なら二三回で治してみせる、これが知れわたったら世界の医学に大改革が起こると豪語する。
どうして一回では治らないかときくと、あまり早く治すと元々病気ではなかったなどといい出すものがあるので、やむを得ず数回に延ばしているという。「神様」もやはりインチキ医者と同じ手を使うものらしい。欄間のところに治療代が出ているが、それによると初回二円、二回一円で、別に「出張療術料金」の規定があってこれは初回五円、二回二円になっている。「神様」も往診するらしいが、普通の町医者よりも高い。
それでもこの1月1日に開業したばかりだが、毎日四、五十人の患者があり市内外に十数ヵ所の支部ができて近く玉川べりに、「玉川郷」といって十八間四面の大観音堂を建立するし、またこの「大先生」から「治療士」の免許をうけたものも今や百数十人に達し、秋田・山形方面にまでひろがっているという。(写真上は教祖、下は某「神霊写真家」の撮ったもの、教祖の頭に煙のようにかかっているものは金色の龍神で、肉眼でも見えたという。これは明らかに二重焼きのトリックだと写真技術家は見ているが、こういう「神様」専門の写真屋もあるらしい。)

※マスコミ初登場の記事



この記事を書いた大宅氏と言えば、今でも大宅壮一ノンフィクション賞や、雑誌の図書館などでも有名な、超大物(毒舌)ジャーナリストです。インチキ臭い雰囲気と、少しバカにした調子の書き方ですが、当時の他宗教特に大本教などの報道に比べてかなり好意的な記事だと言えます。(これでも)
また当時の観音会の様子がなんとなく伝わってきます。
新聞によれば、11月24日頃にアポなし突撃取材を敢行したようですが、明主様は御多忙にも拘らず、積極的に取材に応じられています。また応対に出られたポマードべったりの若い御先達は、この大物ジャーナリストに対して一歩も引かず、判り易く熱弁を振るわれています。なんかスッキリすると同時に、時を越えて応援に行きたくなりますね。
 当時の1円はH19年の¥1800くらいです。多分ですけど。。。(S9〜11東京平均を物価基準指数 1、から換算) 薬代が無い分元手はすくないですが、そんな高いかなぁ。。。保険は利かないけどぅ。。。定額明朗会計だしぃ。。。
しかも記事の通り、信仰しなくても、内心糞食らえと思っても、嫌だと反抗しても結構!従って何の強要も、しつこい勧誘も存在しません。
それでも毎日4、50人やって来る!支部がどんどん出来ている!!どうだ壮一!!!
と小生も安全なところから大物へ一言物申す!

と同時に、近頃問題の霊感商法、カルトとの判り易い違いを、70年以上前の新聞が紹介してくれているとも言えそうです。
紙上明主様は「宗教とは治病以外の何物でもない」と仰っておりますが、「病気が治った!」という奇跡と事実だけをもって当時の観音会は急速に発展していったようです。







小生みたいな人は、新聞の金龍神の神霊写真も気になりますので拡大してみました。
う〜む、、、確かにチョッとぅ。。。
 写真全体が何となくボンヤリしているのは、乾板(≒ネガ)の感度と露光時間の不足の為で、この写真は印刷に堪えるよう、かなり固めに焼付けしているようです。でもオリジナルもだいたいこの様な感じです。
 記事にある二重焼きとは、撮った写真の乾板やネガを巻き上げずに、再度シャッターを切って、被写体を重ねる単純なテクで、小生もやった事がありますが、二重焼きでこの写真を作るには、二つの被写体の光の方向、位置、バック、など大変な計算と勘で一発勝負で作らなければなりません。本当にできるかなぁ。。。しかも一日で。。。小生が大宅氏なら、二重焼きで似たような写真を作って記事にしますけどね。。。
 新聞記事では二重焼きの断定は避けながらも、あえての稚拙な文章と、ぼやかして書く事で記者の主張をハッキリと読者に伝えております。これこそ一種のトリックかと。。。(怒)

でも上記新聞記事のHP掲載を御承諾下さいました、大宅壮一氏ご親族様には深く感謝いたします。私達にとって大変貴重な資料となっております。本当に有り難うございました。

昭和9年10月21日 撮影
観音様の部屋(赤坂の信者宅)にて


「次いでその晩今一枚の霊写真が出来た。それは、私がしきりに睡気を催すので、前にあったテーブルへ顔をうつ伏せにして居睡りをした。そこを東光男が、前二回はマグネシウムを発いたが、この時は私が動かないためか、電灯の光で写した。出来上ったのをみると、これはまた驚いた。うつぶせになっていたので、頭だけ写った。ところが頭の上に龍神が首をもたげ身体は螺旋(らせん)状に巻いており、すこぶる長身である。龍神の身体からは、幾条もの光を発している。数えると五条の光で、これは金色であるから金龍である事に間違いはない。私の守護神は金龍である事の裏付といってもいい。」
昭和24年10月5日


「写真の龍体が、全身一定の太さを保っているのは、不思議に余も思ったのであるが、啓示に依れば、神龍は右の姿が本当であって、その大きさも数尺に過ぎない様であるが、霊界においては、あらゆる霊は伸縮自在であり、特に龍体においては、何万尺の巨龍も僅々(きんきん)数尺になるのであるから、右金龍もいかに巨大な御姿なるかは、想像を絶するものありと思うのである。」
昭和10年5月21日


金龍神様はやはり左進右退の左巻きに見えます。煙の様に見えるのが五条の光でしょうか。私たちはこの写真をみて、明主様の仰る事ですので、だまって信じられますが、一般読者の反応はどうだったんでしょうか。。。
この新聞記事を見て治療に来られた方の中には、医学博士の竹内先生もいらっしゃいました。先生は自分の通風が大変良くなったという事で早速入信し、療術禁止時代にも医師免許があるので、地元盛岡で活動をされて東北での礎を築かれ、その他重要なお働きをされました。
また、同じく関節リューマチが完治して入信された川上吉子先生は、後に宝山荘での下治療の奉仕をされ、また関西布教の命を受けてその礎を築かれ、後に幹部となられる多くの御先達のお導きをされました。
意外にも、この新聞記事は様々な良い影響も創り出しました。
記事を書いた大宅氏、霊写真を撮った東氏は、後年ちょっと御神業のお邪魔をする事になるのですが、神様はこの様な人間も要所々で重要な役目にお使いになるようです。




昨昭和九年十月十一日東光男氏が参りまして、霊的写真が出る事になりまして、観音会が出来たのであります。この霊的写真の説明を付けることにして説明を書いていると、東光男氏が来て、大先生が説明を書いたのではおかしい、何か会名で説明するのが本当だと言う、なる程自分で自分の説明をするよりは何か会の名を以てするのが良いという事になり、大日本観音会という名が出来たので、その名のもとに説明だけの心算(つもり)で居る間にこれが本物になって来た訳であります。
昭和10年9月5日 観音講座E


東氏は立教に際しても、重要なお役目に使われていたんですね。
しかし一方で彼は「あの神霊写真は偶然に撮れたのだが自分に技術があったから撮れた」旨の話をしていたようです。そこで明主様は御講話で東氏同席の中、あえて御諭しになっています。


「観音様が東さんを使ったんであります。ですから観音様の御都合により、そのときの仕事の上においてだれを使うか判らぬ。今後といえども観音様は必要があればだれでも使う。もし使われた人が、俺がこうであるから使われたとか、俺がどうだからと思うと間違いがある。観音様からこういうお見出しに与かるということは、一生涯の光栄で、それに対してはただ感謝よりほかなにもない。感謝してありがたいと思えば後また使われる。少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使いにならぬ。この点はたいへん重大なことで、観音会がだんだん発展する上においても、観音様は非常にやわらかくて厳粛で、たくさんな人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、ただパッと拡げない。」
御講話 昭和10年8月11日


「〜 たくさんな人を呼び寄せては、一人残らずお試しになり、すぐりにすぐり 〜」

私たちも皆、お試しで呼ばれて使って頂いております。御用・奉仕に使って頂いた時の感謝、良い成果が得られた時の慢心には十分注意したいものですね。
なんて小生が言うのは変ですが、いっつも忘れるのでココに書いとく事にしました。


inserted by FC2 system