応神堂


「私は昭和3年から昭和9年まで6年間、霊的研究とあいまって、神霊療法による病気治療の確信を得るまでに至ったので、これを引揚げて世に問うべく決意した。そこで、その頃の東京市のなるべく中心を選ぼうとして、麹町平河町に、ピッタリ条件の叶った貸家があったので、そこを借りて、信仰的指圧療法という建前で治療所を開業した。そこを応神堂の名をつけ、5月1日から始めたのである。」
昭和24年12月30日


昭和9年5月1日 稟告
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大森松風荘での瀕死の病人の治療、時に我が子や信者を実験台としての菜食の実験、浄霊の効果の実証、療術方法の研究などを経て、満を持しての応神堂開業となったわけです。
当時の明主様はまだ大本教幹部の立場でもあり、その活動もされていましたが、開業2ヶ月後の弟子達の不始末が発端となって大本教を離れることになります。この事はかえって独立救世の道への神機到来となりました。

それでは、はじめの一歩応神堂のあった場所を探して見ましょう。


「東方之光」誌にある現住所、略図の場所に行ってみました。この区画のどこかに応神堂があったことになります。しかしこれじゃあ広すぎて、もっと絞込みたいなぁ。いやホントはピンポイントの場所が知りたいんですがね。。。
昭和5年の大日本職業別明細によるこの区画では、中央に大きく「宝亭」があります。これは明治17年からある老舗洋食屋で、昭和9年当時もあった事や、門構えのある?20坪そこそこ5つ間の和風2階建ての家という事から、かつお的には材木置き場の前の空いている所の一部でないかなぁと思うんですがぁ。。。
※この区画は「東方之光」誌旧住所とちょっとずれますが、住所が結構変わっているエリアなので、略図と現住所を優先しました。また開業時のビラにある住所とは一致します。



材木置場の前が丁度、写真右手前辺りになります。つー事で、改めて!
昭和9年単身松風荘よりこの地に移り、5月1日には応神堂を開設!玄関に「岡田式神霊指圧療法・応神堂・本院」の看板を掲げ、2階を信仰的療法の治療所とされました。
 応神堂は我々にとって大変意義深い場所です。
東光男氏による所謂「霊写真」の撮影は、昭和9年10月11日PM3:30ここ応神堂2階床の間の前にて撮られ、後に御神体となる千手観音様(お屏風観音様につながる)を描く重要な資料となりました。
また同年12月4日には岡庭真次郎先生へ「観音経を持って応神堂へ来るように」との電話があり、早速持参したところ、「今から祝詞を作る。」と言って、その観音経(観世音菩薩普門品)を参考に口述、井上茂登吉先生が筆記してできたのが、善言讃詞であります。く〜ぅ!かっこええ!!(この時神言祝詞もお創りになりました!)


そして更に!
大日本観音会仮発会式が、昭和9年12月23日この地で行われたんでーあります!
応神堂2階の九尺(2.7m)の床の間には、表装もできたての千手観音様を御奉斎。初めて拝顔、参拝者一同感動!!!
PM6:00より仮発会式は始まり、献饌に続き明主様先達による「天津祝詞」奏上、玉串奉奠、そして新作の「善言讃詞」をはじめて奏上!讃歌「東方光」を奉唱して祭典は終了したそうです。 

東方光

久方の天津御神は東方の光となりて現(あ)れましにけり
東方の光といへど観音の救世(ぐせ)の力の事にぞありける
三千年(みちとせ)を待ちし甲斐あり東(ひむがし)の光は今し昇らんとすも
瑞雲のたなびく空に赫々(かっかく)と輝きいづる東方光かも
東方の光は東方日の本の国より出づる神定(さだめ)なりけり


しかしこの夜「半蔵門の御神前を仮本部として発会式をあげよ」との神示があり、さっそく造作の指示をされる明主様でありました。半蔵門とは、9月まで大本教、麹町分所であったとろです。

明主様は単身赴任で応神堂に1年間お住まいになりました。




昭和12年修正測図


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