麹町周辺


日枝神社
日枝神社30余人供に連れ 祭礼中を参拝にゆけり

日本寺の参拝ゆ満3ヵ年 意義ある今日の芽出度かりける

 昭和9年6月15日 日記


昭和9年5月に応神堂に移られた明主様は近くにある日枝神社の氏子となられました。この神社は太田道灌が文明10年(1478)6月15日、江戸城鎮護の神として川越の喜多院より山王権現を勧請したことに始まります。主祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ、素戔鳴尊の孫神)、相殿神は国常立神、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)ということです。
江戸時代になってからは、「江戸の総氏神・産神」として市民から崇敬され、当時の山王祭りは江戸3大祭りと称される程盛大に行われていました。しかし当社で最も重要な祭儀である例祭は、現在も毎年6月15日厳かに行われています。上記の日記中の祭礼とはこの例祭の事と思われます。



「日枝神社の出し物はほとんど猿でありました。猿とは猿田彦命の事で、昔から神様の案内役でありました関係であります。」
昭和10年9月5日





神様の案内役の神猿像、神門にもいらっしゃいます。富士山吉田口にもいらっしゃいましたが、こちらのは正面を向いています。そして赤ちゃんまで抱っこして!雨の日に見るとチョッと可愛そうに思えちゃうんです。境内末社には猿田彦神社もあります。




この日枝神社もまた残念なことに、明主様がご参拝された当時の国宝社殿他は昭和20年5月戦災焼失してしまい、こちらは昭和33年に再建されたものです。しかし境内はとても綺麗で、都会の中で神様がいらっしゃる異空間を感じます。
神社の近くにニョキッと建っているのは2002年にできたプルデンシャルタワーです。このビルが建っている場所は、過去に何度か歴史上またはマスコミの話題に登場することになった場所です。ちょこっと頭の片隅におぼえておいて下さい。




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観音様の部屋

「赤坂の某所に住んでいた某夫人の病気を私が治したので、その夫人は感激の余り三階に観音様の部屋という六畳敷の一間を作った。その部屋は私のかいた観音像や、種々の書体をかけた。私も夫人の感謝の気持に嬉しく思ったのである。その部屋の出来上る頃、私は千手観音の像が描きたくて仕方がない。それから巾五尺長さ六尺という大きな紙に描くべく構図にとり掛った。しかし描く部屋が長四畳の座敷なので狭いとは思ったが、外に適当な部屋がない。それを夫人が見兼ねて、「今度出来た私の家の三階の観音様の部屋ではいかがです」という。私は気がついて、それは結構だという訳で、いよいよ右の観音の間で筆を執る事となった。」
昭和24年10月5日


新教団(大日本観音会)の御神体とすべき千手観音像は巾5尺長さ6尺、という事は約151.5×181.8cmですから応神堂2階?の長4畳ではギリギリですよね。人の出入りも激しく何かと不便。そんな時に新築の最上階、丁度良い広さの部屋が熱心な信者さんから提供されるとは、やはり神意を感じますね!明主様が千手観音像を描きに行かれた信者さん宅は、別の御論文に赤坂田町と書いてありましたので、その辺りにも行ってみました。


現在田町は無くなって、赤坂3丁目になっています。「歩きたいのよ赤坂 」「セニョリ〜タ〜」みたいなムード歌謡で歌われているように、現在は有数の繁華街になっていますが、昔はもっと粋な町並みだったはずです。正面遠くに見えるビルはホテルニューオータニ、他に近くには先の日枝神社やTBSがあったりします。応神堂からは1km程、比較的容易に来れる場所です。明主様は昭和9年10月2日から応神堂での仕事が終わった後、この辺りまで来られて千手観音像の制作に没頭されました。
しかしその製作はすんなりとは行きませんでした。。。 




「ちょうど三分の一くらい出来た時である、その夫人の主人というのが大酒家で、非常に酔って帰った晩、何思ったか書きかけの千手観音の画をナイフで滅茶滅茶に切り刻んでしまった。それを電話で知らされ、驚いて行ってみると、なる程余りの無残さで、一時私は茫然として泣きたいくらいであった。その時ふと浮んだ事は二、三日前に出来た、千手観音の霊写真である。そこでよく考えてみると、観音様は初めのではいけない、このようにかけと霊写真によって見せてくれたに違いない。--中略--そうだむしろ感謝すべきだと思ったのである。早速新規蒔直しに書いたのが五六七(ミロク)教会小田原本部にある千手観音のお姿で、仏壇へ祀る御屏風観音でもある。そうして右は最初の構図と違う点が三つある。最初のは円光がお顔の周囲だけであったのが全身的になった事と、最初のは髯(ひげ)があったのが、今度のは全然ない。いわば若いお姿で、また最初のは雲の上であったのが、今度のは巌(いわ)の上という訳で、つまり円光が大きくなった点、お年が若くなった点、雲上から降られて地上で救いの業をなされるという訳で、私はなる程とうなずいたのである。」
昭和24年10月5日


Kの三階画室に今日よりは観音の画描く事となれり
                  
   昭和9年10月2日 日記

応神堂早く済みけりKへ観音描きに行きにけるかな
                    昭和9年10月19日 日記

千手観音描く半ばにKの主人破りしと語りたりけり
                   昭和9年10月20日 日記

千手観音二度目の画像Kの三階に描きはじめし今日かな
                        昭和9年11月5日 日記

千手観音漸く今日の夜遅く出来(しゅったい)なして心足らへり
                         昭和9年11月17日 日記


※日記にある某婦人名はKに変更しております。



日記から考えると、はじめの観音様は10月2日より19日間で1/3程まで描かれており、御神体となった2度目の観音様は、筆や筆洗を新たにされた後、11月5日から13日間で完成されている事になりなす。応神堂の仕事を終えられてから、夜遅くまで描き続けられる明主様のお姿が偲ばれます。しかし別の御論文の中には。。。
※応神堂への帰り道の、赤坂見附交差点。
真っ直ぐ行って清水谷コースか?いや右へ曲がって赤プリコースかな?


「急遽下絵を作りて一週間にて描き上げたり。」
                     昭和10年2月4日


との記載があり、実際は立教直前で多忙の為、決して毎日観音様の部屋まで通えるような状態ではなく、超人的集中力でもってあの大作を描かれた事が拝察されます。そして12月23日の応神堂における大日本観音会仮発会式では、表装も出来たての千手観音様の御奉斎となりました。

しかし小生も確かに酔っ払いですが、こんな事は考えられません!しかもご主人も信者さんかと思われます?(組織名簿より)やはりそこには深い神意が働かれていたんですね。
こうして御苦労の末芽出度く完成した千手観音像は「大日本観音会」の御神体となり、その後「日本観音教団」「日本五六七教」「世界救世(メシヤ)教」「世界救世教」の御神体となり、救世(メシヤ)会館にご奉斎されておりましたが、昭和32年5月に暴漢の襲撃にあい失われ、現在は御屏風観音様のお働きのみされておられます。ここには如何なる神意が働かれていたのでしょうか。。。


自観荘

1年目の今日いよいよ自観荘の 新居へ芽出度引移りけり
ささやかな家を借りしも絵や歌に いそしまんとて今日うつりけり
                           
昭和10年5月5日 日記

麹町に来られて丁度1年、神業の進展にともない応神堂は既に手狭になっていました。そこで別に住まいを借りることになり、移られたのが自観荘です。「東方之光」略図によれば、この建て物の敷地内にあったことになります。仮本部からは徒歩2,3分程、お向かいが皇居、お隣が英国大使館という立地です。自観荘は和洋折衷2階建て、仮本部と同じくらいの大きさがあり、神前にすべき2階は10畳2間で、2階の窓は黒枠、壁は朱塗りの中国風で、1階は洋式という洒落た造りだったそうです。こちらへ大森の松風荘からご家族を呼ばれて漸く単身赴任解除となられました。しかし教団の発展ぶりはここに落ち着くことを許さず、約5ヶ月後には広大な敷地をもつ上野毛の玉川郷へ移られることとなります。 


竹村良三会長宅
竹村会長は「大日本観音会」発会の祭典において祭主を務められた他、教団の草創期に大活躍された方ですが、ご自宅が自観荘や仮本部から徒歩7、8分と近いこともあり、家族ぐるみのお付き合いをされていたようです。
新宿通りと通称旧日テレ通りの交差点角、この辺りにご自宅があったそうです。(ちょっとおっかないお顔でココにいらっしゃったのかぁ。。。)



東光社(旧愛善堂)
会長宅から旧日テレ通り(善国寺坂)を見たところです。この坂の途中に機関紙の編集所であった東光社がありました。元々は大本教機関紙「愛善新聞を発刊していましたが、独立して大日本観音会が発足後は、「東方の光」紙、「光明世界」誌などを発刊、信仰のより所となっていました。
また東光社は男子新聞隊の宿舎でもありました。新聞隊は大本時代から布教活動として刊行物の訪問個別販売をおこなっていました。しかし当時の奉仕者、専従者には手当てや報酬といったものは何も無かったので、新聞売りで得た収入が生活の全てであり、本当に厳しい布教活動、修行でありました。そして新聞売りを2、3年つとめあげ、明主様に認められた人だけにお守り等が与えられました。(S10から誰にでも分け与える)高弟の中島一斎先生も妻子を持ちながら、この厳しい修行をされたおひとりです。
そういえば以前、明主様ご在世当時(時代は戦後?)からの専従者のお話を聞いた事を思い出しました。先生は必死で開拓布教されましたが、辛くて務めきれず、悩んでいたと正直なお話をして下さいました。すると明主様は箱根でのご奉仕に切り替えて下さったそうです。しかしそこでは「修行がたりん」とか「これも修行だ」とか、最近あまり使われないこの「修行」というお言葉を、当時の専従者にはよく使っていらしたそうです。小生の場合は、時にこの「修行」と言う言葉を想い帰さないといけないかも。。。です。 




この坂の途中、会長宅のならびに明主様がお好きだったうなぎの店、秋元が当時の場所で営業しています。
厳しかった当時の布教、修行の話のすぐ後で恐縮なのですが。。。
入っちゃいました。早速修行がたりん!?
まあ一種の道楽的HPですので。。。
これ一番安い、うな重(松)\1600と肝吸い\200なんですが、んめ〜ぇ!!!明主さま〜!旨いっス〜(涙)。たれも、身も、ごはんも、星3つでっす〜!☆☆☆(まちゃ〜き)。
すっかり心は高天原になったところで。
あーんど、日テレ!善国寺坂の先にあります。コピーもふるけりゃ、社屋もふるいわ!しかも特にゆかりの地でもないわい!
では、 ※印に、ズームイン!。。。ふ〜っ



大本幹部時代の明主様は、当時の教団の方針である、思想活動より病気治しに没頭し、他の幹部より警告を受けられていました。しかし明主様は「苦しんでいる人を救うほうが大事である」と、お聞き入れにならず、さらに請われるまま希望する信者に対しては、おひねり、お守りを自らつくり与えていました。しかしこの行為は大本教三代様のみに許された神業、とされていた為、教団内で大きな問題となりました。そんな中ある大本幹部が上京し、麹町分所(後の仮本部)に来て、大勢の信者の前で明主様をののしり、おひねりを焼くという事件がおこりました。可能な限り多くの人を救いたい明主様、必死で信仰を守りたい幹部、どちらのお気持ちも察するに余りありますが、その場に居合わせた清水清太郎先生は後に、「その時の教祖様は、信者の前で恥をかかされ、まったくお気の毒でした。しかし、じっとこらえて一言も言われませんでした。」と回想されています。この時の事は御論文「怒る勿れ」の中で次のように出ています。
皇居側から見た仮本部の路地



「元来私の性格としては怒るのは嫌いなほうであるが、不思議なほど怒らせられる。一度などは非常な誤解を受け、大多数の人に顔向けの出来ないような恥辱を与えられた。私は憤懣(ふんまん)やる方なく、どうしても我慢が出来ない。するとその時、よんどころない所から招(よ)ばれ、断われない事情があったので、その家に赴いた。頭がボンヤリして精神が集中しない。どうにも致し方ないから、紛らすため酒を一杯所望し、酒を飲んだのである。その頃私は一滴の酒も嗜まないから、よくよくの事である。そんな訳で、二、三日たって漸く平静を取り戻したというような事もあった。ところが後になってその事のために、ある大きな災難を免れ得たのであった。」
昭和23年9月5日


この日明主様が赴いた家というのは、先にご紹介した竹村会長宅であり、断れない事情とは、鎮魂の為でありました。
しかしこの事のために免れ得た災難とは、いったい。。。?
この事件の数年後、憤懣やるかたない弟子達の抗議がきっかけで大本を去ることになり、そのすぐ後にあった2回目の大本大弾圧を免れ得た事を仰っているかと思います。

※鎮魂帰神法=大本教で応用された古神道の秘法、魂を落ち着け無心となり神と一体化する、業、救い。


清水谷公園は応神堂から徒歩約5、6分のところ、ホテルニューオータニのすぐ近くにあります。たぶん明主様のお散歩コースだったことでしょう。その名のとおり谷にある公園なので、行きは下りで帰りは上りのコースです。それでもきっと早い足どりで歩かれてたんだろうなぁ。。。
この公園は明治11年に時の内務卿大久保利通が、近くの紀尾井坂で暗殺されたことを悼み、土地の寄進や哀悼碑が建立された事などをうけて、東京市が明治23年に公園として整備したところです。
公園前のオープンカフェで公園を見ながらお茶でも、と思いましたが。。。いつものように時間がないので、明主様のごとく早足での移動となりました。


最後にここもご紹介しておかねば。麹町警察署
赤レンガ風?のビルがそれです。当時と同じ場所にありますが、自観荘と仮本部の中間くらいの所にあり、とっても監視呼び出しのしやす〜い場所にあります。実際、応神堂開業まもない頃麹町警察署の呼び出しがあり、開業ビラが誇大広告としてココで始末書を書かされています。その他大本時代から弟子たちが新聞配布中、熱心なあまり押し売りと勘違いされたりして、時折警察が絡むことがあったようですが、そんな時は麹町区会議員兼警察の保安協会副会長兼後の大日本観音会会長である、竹村先生が当局との交渉に奔走されるのでした。
「無理な勧誘はいけない」と度々筆に口に仰っているのは、この様な御経験や、相手の気持ちを考えてのご教示という部分もあるかもしれませんね。


朝早く警察に行き広告の誇大の始末書をとられける
                         昭和9年8月28日 日記


もしかして明主様に対する警察の呼び出し第1号は麹町署かな?!思えば明主様と警察とは色々な因縁があります。実業家時代に援助をした苦学生は後に巡査になったり、麹町署の呼び出しをかわきりに御昇天まで干渉は続き、お命を縮められた事もあり、その一方で御昇天後の奥津城建設の認可等の複雑な問題に際して、役所との困難な折衝には元警察幹部のI先生の尽力大であった事実もあり、複雑な感慨を覚えてしまいます。


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