大正11年 (1922) 日枝神社
旧国宝 社殿


 国立国会図書館H.P.より転載
※当画像及び上記H.P.画像の複製には、国立国会図書館の許諾が必要です。


「今度いよいよ光明世界になるのは、天照皇大神が出現になられる岩戸開きがあるのであります。昭和六年六月十五日、私が房州日本寺に天照皇大御神を御迎いに大勢の信者さんを御供にして参詣に行ったのであります。この時大神様が霊界へ御出現なられたのであります。」


--中略--


「昭和九年六月十五日に私は御神命により、麹町の山王様即ち日枝神社へ三十何人の御供を連れて御参拝しまして、天照大神様を御鎮祭、一同で祝詞を奏上致しました。これは日枝神社へ天照皇大神様が御鎮りになられたのでありますが、霊的の事でありますから神官すら知らん事であります。
日枝神社は今まで三柱の神様が御祭りしてあったが、この三柱の神様は今までの御留守番であったのでありますから、六月十五日の朝御昇天になられたのであります。これが昼間の世界の第一歩であります。」
観音講座E 昭和10年9月5日


大変古い御論文ではありますが日枝神社は非常に重要な神社であった事が解ります。また日本寺の神事とその3年後の日枝神社参拝とはリンクしていたんですね。つまりは麹町での立教に繋がっているのかもしれませんが。。。では元伊勢神宮との繋がりは?。。。ん〜わかりません!
 この日明主様は岡庭道明先生を先導役に参拝者を36名と制限されました。そして竹村会長が当社氏子総代だった関係で、例祭のこの日この社殿に昇殿して、明主様のご先達で祝詞を奏上されたそうです。

それにしてもこの様に重要な神社がどうして焼失してしまうんでしょうね。。。ちなみに焼失する1年前の同月に明主様は神山の麓の強羅へ移転されました。何か関係あるのかなぁ。。。ん〜これまったわかりません!
ちなみに日枝神社の勧請元の川越の喜多院(川越大師)は、日本寺ともゆかりの慈覚大師円仁が開いた寺です。何か関係あるのかなぁ。。。わかるわけないって!


inserted by FC2 system