玉川郷(宝山荘)
これが現在(H19)の上野毛駅です。昭和10年当時の駅舎は写真右側の道路を隔てた側にあったようです。ここから徒歩3分位のところに玉川郷(ぎょくせんきょう)はありました。 その地を偲ぶ為にもそぞろ歩きながら、「東方之光」誌をひもといてみましょう。 |
|
昭和10年1月1日麹町の仮本部にて、大日本観音会が発足して以来その躍進はめざましく、既に仮本部の建物は手狭になっていました。そこで本部にふさわしい土地、建物はないかと物色していたところ、昭和10年6月15日玉川を訪れていた明主様ご一行は男爵、田健次郎邸が売りに出ているということを知りました。早速行ってみると、「まさに用意されていた土地也!」すっかり気に入られた明主様は、当時手元にあったお金の10倍以上の値段ではありましたが、借金をして購入される事にしました。 (確か他にも借金あったようなぁ。。。) そして昭和10年10月10日午後1時、お庭に天幕張りの野外祭壇、総檜五尺六寸七分(約1.7m)の神床を設け、参拝者約250人、秋晴れの中「大日本観音会」総本部発会式は盛大に執り行われました。思えば仮本部での立教より十月十日、人の誕生と同じ時をかけ総本部玉川郷はここに誕生したのでした! などと言ってる間に、五島美術館まで来てしまいました。 |
昭和12年修正測図 |
五島家といえば大東急。玉川郷(以後宝山荘)のお隣さま。土地係争問題。宝山荘の土地売却金で藤壺を購入。後年ご好意でみろく塔の返還にご協力頂いた。そんな繋がりのあるお家柄です。 では、まずは宝山荘の痕跡を探しに、五島美術館のお庭を拝見する事にいたしましょう。 今回テーマは違いますが、五島美術館は展示室1室ながら、「源氏物語絵巻」を含む国宝5点を始めとする、すばらしいコレクションをお持ちで、小生が訪れた時も、重文、重美を含め、だれもが知るビックネームの書や、茶道具が展示されていました。 お勧めです! そうそうそれと、この現代風神殿造とも言えるこの美術館の建物は、明主様との親交も厚く、日光殿の設計もされた吉田五十八氏の手によるものであります。 |
後年できた富士見亭茶室、藤棚、昭和天皇お手植えの松などを拝見しながら進み、西側の谷を見ると、菖蒲池(しょうぶいけ)があります。 ここは宝山荘敷地で、当時とあまり変わっていないと言う事なので早速行ってみます。 しかしすっごい高低差!宝山荘のお宅が武蔵野台地の河岸段丘の上に立地していた事がよくわかります。ちなみにこの武蔵野台地の東端ラインに大森駅があり、その段丘面の上に松風荘はありました。 |
この辺りが富士見亭のあった場所だと思われます。明主様は富士山とここからの景色を楽しみたいが故に、西向きにお宅を建てられ、夏は暑く、冬は寒いこの家に、昭和11年10月の完成以来、箱根に移られるまでの約8年間お住まいになりました。 画面左側が西で崖になっています。この高台からは丹沢連山や富士山を一望にする事が出来ます。 お玄関は灯篭の右辺りかなぁ。。。 |
富士見亭跡に立ってみると(15:00頃撮影)真っ正面から猛烈な西日を受けます。眩しいだけでなく熱い! それでもここからの景色と、この家を大変気に入っておられました。 |
玉川郷より見たる 元朝の富士 自観 拇印 昭和11年の元旦の朝の風景です。 立教後初めて迎えられたお正月です。 |
|
玉川郷跡より見たる富士山 かつお 平成19年1月吉日、開館後すぐの10時頃。 観れてよかった〜! 明主様ありがとございます。 |
富士見亭の建物は、現在箱根美術館庭園内に移築されており当時を偲ぶことが出来ます。 約16.5坪、10畳、6畳、2畳の3部屋と玄関、台所のこじんまりとした住居ながら、揮毫や執筆の他、お弟子さん達と話す場所としてもお使いになり、当時の御神業の中心とも言える重要な建物です。 朝夕にはこの濡れ縁から、タバコを燻らせながら富士山を眺めておられた事でしょう。 |
わか庭の こぶしの大木 しらぬ間に 蕾(つぼみ)ふふみぬ 春立ちてより 明麿 明主様が愛でられたこぶしの樹。 3年に1度だけ満開の花をつけます。 東京都指定天然記念物となっています。 |
美術館庭園東南端のこのあたりが、おそらく宝山荘と五島家との境界ではないかと思われます。写真右前方が富士見亭跡(推測)。 そして中央の建物の辺りから奥へ母屋があったと思われます。 この建物の東(写真左)と南(奥)は、すでに売却されており高級住宅地となっております。 それでは五島美術館庭園を出て、かつて母屋や畑のあった方へ行ってみましょう。 下をクリック |