日比谷通り沿い


日比谷から銀座にかけてのエリアは、明主様の青年期はもとより、実業家時代や御神業に専念されてからも、休日などによく訪れられたエリアです。
おそらくハイカラで都会人たる明主様が、最も愛され、最も思い出多き場所ではなかったかと思われます。
今回はそんな中でも、皇居に面した日比谷通り沿いのゆかりの場所だけに絞って、訪れてみたいと思います。
ではまず、日比谷通りを北の方から。




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帝国劇場

明治44年に建てられた日本初の洋式劇場。昭和初期に映画館に転向するまでは、新劇、オペラ、歌舞伎などの上演が行われていました。皇居の前にあり「帝国」の名を冠するだけあって、ルネッサンス様式の相当りっぱな劇場だったようです。「景仰」誌の中では、岡田商店時代のエピソードとして、仕事が終わるとよく奥様と帝劇に行かれたと言う話や、店員全員を帝劇の芝居に招待されたり、女優劇がかかると券を二、三百枚も買われて、それを皆におわけになられたという事などが紹介されています。当時帝劇で「岡田さん」と言えばかなりの有名人だったようです。



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女優劇とはおそらく、明主様が名人の一人としてあげられている新劇の松井須磨子さんの事ではないでしょうか!イプセン作の「人形の家」、メリメ作の「カルメン」での彼女の演技を見て非常に感動したと述べられています。「人形の家」を見られたのは、おそらくココ帝劇だったと思われます。
この松井須磨子さんについては、後のはみだしで、また。。。



第一生命館 DNタワー (旧GHQ)

連合国軍最高司令官総司令部、GHQが置かれたビルです。GHQとは終戦後、占領下日本への最高統治権限を持ち、占領政策の事実上の最高意思決定機関であった場所です。GHQが明主様ゆかりの地とはとても言えませんが、GHQの間接統治下の時代において本格的御神業が始まり、発展していった事や、なによりもココの親玉の最高司令官がダグラス・マッカーサー元帥であったと言う事が、この場所をスルーできなかった理由です。



「私としても嘗(かつ)てない気持が湧き起った。それは今回の元帥解任の報を聴くや驚くと共に、目頭(めがしら)が熱くなるのを、どうする事も出来なかった。今までにこんな例はない。丸で親兄弟か、教えの師にでも別れるような、心(うら)寂しい感がしたのである。
 ところで、この不思議な感情は、何がゆえに湧くのであろうかを考えてみた。これが是非私の言いたい点である。すなわち元帥程の大きな愛と、正義感の強い人は滅多にないからである。しかも身は軍人でありながら、その優しさと奥床しさは、人を魅了せずにはおかない。言わば古武士のごとき床しさもあれば、英雄ぶるような臭味は少しもなく、いかにも自由平等的である。こう並べ立てればキリがないが、そういういい面は何が原因かというと、全く信仰から生まれた正義感の表われであろう。というのは元帥は熱烈なクリスチャンである事で、時々出すメッセージの中にも、神という文字がよくそれを物語っている。
 そんな訳で、元帥が日本にもうおらないと思うと、何かしら心寂しいものに襲われる。頼るものがなくなったような寂しさだ。というのは元帥の正を踏んで恐れずという、アノ固い正義感からであろう。みなアメリカの利益のみを考えないで、日本を敗戦国と見なさない人類愛的、公平な扱い振りであるからである。終戦後日本へ上陸された第一声の中にも、その事をよくうたわれていた。
 ここで、ひるがえって考えてみると、日本の政治家である。相当偉い人もあるにはあるが、何よりも一番欠けている点は、宗教心と正義感と公平とであろう。--」
昭和26年5月2日


マッカーサー元帥が解任され帰国直後の御執筆と思われますが、チョッと明主様の御論文とは思えないような表現、内容の御論文と小生は思いましたが、いつも率直、飾らない明主様の、当時の偽らざる心境がよく現れているものとも思えます。合わせて宗教心の大切さと、日本の政治家にそれを求めている所などは、やはり明主様らしい御論文なのかも知れません。この占領には明・暗があったとしても確実に良くなったのだという証拠でもありますね。
その占領が昭和20年〜27年であった事を考える時、明主様御在世中の本格的御神業の期間のほとんどが、独立国でない日本の中で行われたという事に気付かされます。アメリカとマッカーサーという人物が、神様の御経綸の中で非常に大きな役割をはたしてる事を改めて感じさせられる事でもあります。



「先日ミズーリ艦上調印記念日のマッカーサー元帥の書簡の中に「東西文化の融合する所が日本である」とあったがその通りです。みんながつけているバッジの真ん中の赤は日本を表わし、そこで縦と横が合一している形を表わしているのです。」
御光話 昭和23年9月18日


「ダレス氏の言の中に、面白い一節があった。それは東洋の代表者は日本であり、西洋の代表者は米国であるから、これからは両国が緊密になって、平和を守らなければならないという意味を強調された事である。これは私がいつもいう通り、経(たて)の中心は日本であり、緯(よこ)の中心はアメリカであって、いずれは経と緯が結ばり、それから真の文明が生まれるというその説と一致しているではないか--」
昭和27年1月1日


GHQが日本政府に指示・命令を出しながら行われたこの間接統治の時代、換言すれば御神業発展の時代とは、不平等かつ屈辱的で逆さまとは言え、経の日と緯の米の融合の時代であったのかもしれません。。。しかし60年以上たった今も尚逆さまと間接統治(笑)のままである日本は、このままでよいのかという疑問も出てきますが。。。これからが正に「アメリカを救う」の時代なのかもしれません。
結構ゴーマニズムな上に、話が大きくなりすぎて腹イッパイになっちゃた。身近なことからはじめよっ。。。と!


アメリカを救うへGO

明主様は日本の再建に尽力していたマッカーサー元帥に対して、薩摩焼の茶碗を贈呈されたようです。薩摩焼(白もん)は、貫入(ひび)のはいった白地に金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付や、精巧な透彫りを施した繊細華麗、ハデ目なもので、大名などに献上される完成度の高い磁器です。(古い鍋島・伊万里・薩摩は明主様好みです。)
いかにもアメリカ人が好みそうな逸品を明主様が御自らお選びになって御贈呈なされたものと拝察されます。
マッカーサー元帥という人が御経綸上大きな役割を果した人物であったとすれば、数多ある贈答品の中から必ずやこの一品を Pick up して、手元近くに愛蔵されたものと信じます。


第一生命館の6階には今もマッカーサー執務室が保存されていますが、9・11事件以降非公開となってしまいました。(残念!)
この事件を契機にアメリカはアフガン戦争、イラク戦争をおこない現在も駐留していますが、その占領政策は日本占領の成功を参考にしていたとも言われています。しかし現状はご存知の通りですが。。。
 ふと冷静になって今の国際情勢を見てみると、確実に不安定要素が拡大している事に気付きます。地域紛争、テロ、ミサイル、核、資源争奪、独裁国家。。。そして環境、食品、新しい病気等々の問題もそうです。実はそろそろ危険な時期に来てるのかもしれません。
本当に身近なことだけでいいのかなぁ。。。ここに組織としての、力としての「教団」の大きな存在意義があるのかもしれません!
ただ人智ではなく、御教えに即した方向にその力を揮わないと、神様のお邪魔にすらなりかねない危険もありますが。





神宮奉賛会本院(日比谷大神宮)

日比谷公園前にある三信ビル(H19解体)と日比谷三井ビルです。この場所に嘗てあったのが神宮奉賛会本院、通称日比谷大神宮です。東京における伊勢神宮の遥拝殿として、明治13年に建立された国家神道の重要な神社でした。
一般の神前結婚式は日比谷大神宮から始まったそうで、それまでの結婚式は各家庭で行われるのが通例でした。




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大正8年12月、明主様と太田よ志さん(後の世界救世教二代教主)との結婚式が行われたのがこの神社の御神前です。明主様37歳、よ志さん22歳の時でした。(可愛らし〜い!いや失礼しました)
実際御神前があったのはおそらく三信ビルの場所で、位置は多分。。。





この辺りかなぁ。。。 主祭神は、天照大御神様、豊受大神様であります。しかし当時無神論者であったはずの明主様が、この二柱の神々の御前で、しかも伊勢神宮そのままに模した社殿の神前にて式を上げられたのも、絶対避けられない御因縁があっての事でしょう。またお仲人を務められた方は予てより懇意のお医者さんであった事や、太田家が代々続いた薬問屋であった事なども、不思議な御因縁だと思います。


式の後の披露宴は神社付属の施設だった「大松閣」で行われました。かなりご立派な披露宴だったはずです!場所は日比谷三井ビルの路地を入った、今の日比谷シャンテの一画でした。 


そして翌朝、お2人は箱根へと新婚旅行に旅立たれました。数日後戻ってこられた奥様に叔母様が「どうだったの、うまくやっていけそうなの。」と尋ねると、「私好きになりました。安心してください。あの人ならいいわ。」と言われ、家中一安心されたそうです。
ご主人が明主様だったから良いですが、当時の女性はホント可愛そうです。勿論自由恋愛、スキャンダルも盛んな大正期ですが、今のように自由・開放的になったのは、やはりマッカーサー改革の一成果なんでしょうね。。。明主様は「男女合権論」を説かれております。



帝国ホテル
日比谷公園の日比谷門(正門)の前にあります。実業家時代にもきっと利用されていると思いますが、玉川の宝山荘時代には、官憲の干渉を避ける為行われた会食会の会場として、またプライベートでもご利用になっていました。当時の建物は大正12年竣工のフランク・ロイド・ライト設計の有名な建物で、玄関部分のみが愛知県にある明治村に移築保存されています。また明主様はライト氏を高く評価していました。
日比谷公園
明治36年に開園した日本初のドイツ式洋風都市公園です。明主様も勿論来られているでしょう!16万uの敷地内に様々な文化施設があり、休日にはたいてい何らかのイベントが行われています。この日はアフリカンフェスタ?で、アフリカ各国の出店が並び、西洋人観光客も混じって人種のるつぼでした。ジャンボ〜!
アフリカンBeerを飲みつつ。。。そー言えば初めて行ったコンサートは園内の日比谷野音の○※△♀(赤面)さんコンサートだったなぁ。。。
松本楼
開園当初から公園の中央にあった老舗レストランです。「景仰」誌には、ココが披露宴会場?と書いてありましたが、どうやら違うようです。明主様はきっと来られてるでしょうけど。
昭和46年に暴動学生の放火で全焼してしまいましたが再建し、それ以来その時の励ましに感謝して、毎年9月25日に10円チャリティーカレーをやっています。収益金は松本楼からの寄付金をプラスして全額寄付されています。お客の方も10円なのに1万円払って行く人もいるそうです。イイ話だなぁ。これが地上天国です!今は有名になりすぎて9時から2000人並ぶそうですが。。。


日比谷公会堂

公園内南端にあります。昭和4年竣工当時は東京市唯一のコンサートホールでした。公会堂の反対側は市政会館です。 


昭和26年5月22日、この場所で明主様の講演会が行われました。この講演会は信者だけでなく、広く一般会衆に向けて御教えを説かれた初めての講演であり、三千数百人という大観衆の前での初講演という意味においても記念すべき講演会でありました。
当日の朝、公会堂前にはすでに聴衆の列が出来始めていました。その頃熱海・碧雲荘の明主様も出発の御準備をされていましたが、大変お洒落であられた明主様は、普段人の意見で洋服を着る事はなかったのですが、この日はご家族の意見も採用されて紺のダブルに赤のネクタイという若返ったお姿で、意気揚々と出発されたそうです。
昼近くになると公会堂の前は長蛇の列となっていました。そしてこの列はいったい何だ?という事で、この日の講演者のお名前と、「真文明の創造」と書かれた大看板の前にも人だかりができていました。そしてこの群衆はゆっくりと公会堂の中へと吸い込まれていきました。 
最近話題のお光さんの話をちょっくら聴いてみようと思った人、当時人気だった徳川夢声氏を見たかった人、信者さんに誘われて来た人、必死で明主様を求める信者さん、いろんな思いの人々が約2000のキャパの会場に3000数百人集まって、会場はまさに立錐の余地もない程の状態です。
そして定刻の午後1時となりました。講演会はまず信者で舞踊家の伊藤道郎氏の講演から始まり、次いで名講談家の徳川夢声氏らのお話となって、その後いよいよ明主様の講演の番になりました。
この時の心境を明主様は次の様に述べられています。



「何しろ録音やハワイヘラルド紙等に掲載される予定なので、慎重を期し、前もってかいた原稿を持参したところ、さて私の時間となり演壇に登るや、自然に言葉が湧いて来るので、如何ともし難く、そのまま原稿抜きで喋舌(しゃべ)ってしまったのである。」
昭和26年6月13日


このように明主様は用意した原稿にとらわれる事なく心のおもむくまま、お話を始められました。
 唯物文化は我々に便利さをあたえながらも、病・貧・争はいっこうに無くならない。真の文明は生命の安全が確保される事であるが、病気や戦争が無くならない今は、半文明半野蛮の時代である。これは時期の関係もあったが、全ては肉体と精神の病気に起因しており、それを治し真の文明にする為には物質文化の次は、霊の存在を知る事である。それは病気・災いの原因を知る事であり、それ故に信仰と浄霊が重要であるという事を語られました。さらに夜昼転換・最後の審判にも触れられた上で、時期ここに至って病貧争絶無の地上天国を造る実行者は自分であるという事を、未信者の方にも解り易く語られたのでした。
最後にキリストの火の洗礼についてお話になりそうになって、時間が来ましたので、と講演を終えられました。今回も火の洗礼の具体的、核心についてはお話頂けませんでした。。。恐い。。。


でもこの日、この場所で、明主様から直接、これら御教えの根幹とも言えるような御講話を頂けた人達ってホント幸せですよねぇ!
実はこの日の御講演は、上記の明主様のご心境の所にも有るように録音がとられており、その後の教学・信仰の糧として利用されていたようです。小生の熱望する所としては、ココ日比谷公会堂における明主様の録音講演会の開催!同時上映「天国の苑」(S27)「大建設」(S27)「東方の光」(S28)!!是非企画して頂けないでしょうか!!!勿論当時と同様に広く一般に向けての企画として。今回は映画も有るので財布に優しい有料で!きっと大きな光の輪ができると思うのですが。。。



「-- だいぶ長くなったので、話はその位にして、寸鉄を。。。」
                        
昭和27年1月3日 御講話より


はい、かしこまりました!
明主様はご面会の折、御講話の質疑応答の最後は御自作の「寸鉄」で笑ってしめられていました。その中の日比谷の講演会についての寸鉄を。。。小生の失敗写真と共に。。。m(__)m すいませ〜ん。


「日比谷の講演会の大入満員は、近来例がないとの話、吉田首相の講演会の時よりも、演芸者大会の時よりも、ズット盛んだとの話、してみると拙者(せっしゃ)の人気は大したもんだと、自惚(うぬぼ)れてみたが、よく考えるとロハのためだと分ったので、オヤカシた鼻もペッチャンコ」
昭和27年5月7日
※ロハ= 昭和初期の若者ことば。 ロハ → 只 = ただ → 無料という意味!







「この間日比谷公会堂で、拙者(せっしゃ)は言霊のピカドンを放ったら、御腹に威張っていた御客様連中、みんな縮み上って、腹の中のヒビや(日比谷)脛(すね)傷の痛みが出て、つくづく公会(後悔)堂とはいい名だね」
昭和27年5月7日
※御客様連中= 副守護神。 これは説明の余地はなかったですね。









「この間の日比谷公会堂で、私は釈迦、キリストは私の弟子に相応するといったので、驚いたという話を時々聞くが、いずれは話ではなく、本当の力をみせたら、開いた口が窄(ふさが)らなくなるだろうから、それを治す方法を教えてやろうよ。いいか、鼻の先へ素敵な御馳走を並べてやるんだよ」
昭和27年6月11日








クククッ(笑)。。。これだから明主様が大好きなんですよ!



はみだし


明主様が名人の一人と称した、女優・松井須磨子さんとは、どんな人だったのでしょうか。
もともとは何処にでもいる普通の女性でした。17歳の時結婚をしましたが、病弱を理由に離婚されてしまいます。その後再婚をしてから、坪内逍遥、島村抱月の文芸協会で女優を志ますが、彼女は当初からその才能を発揮してイプセン作「人形の家」のノラ役で大反響を呼ぶ事になります。しかしプライベートでは演劇にのめり込むあまり二度目の離婚をしてしまい、ついには演出家の抱月と赦されぬ恋に落ちてしまいます。抱月は妻子と早大教授の地位を捨てて須磨子と「芸術座」を旗揚げし、以後、須磨子主演で「モンナ・バンナ」「復活」「サロメ」「カルメン」「闇の力」等、次々に話題作を発表、どれも大好評を得ます。中でも大正3年帝劇講演の「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒット!東京の女学校では「カチューシャの唄」禁止令まで出る始末。こうして須磨子は日本初の国民的女優となりました。
しかし一方で、その強い性格、男性遍歴から「堕落」「恋多き女」「たいしてきれいでもなのに」云々とやゆされます。それでも結局大正女性の憧れ、進歩的女性として大人気でした。またいくら酷評されても問題作を発表し続けられたその強さは、自分の演技力と情熱に絶対の自信を持っていた事、そして何より傍らに常に敬愛する抱月がいたからではないでしょうか。
そんな大正7年の事、須磨子は流行病のスペイン風邪にかかってしまいますが、それが看病をしていた抱月に感染してしまい、須磨子は治ったものの抱月は亡くなってしまいます。この事で生きる糧を失ってしまった須磨子は「カルメン」の講演期間中に、神楽坂にあった芸術座の舞台裏で首を吊って自殺してしまいました。それは抱月の死の2ヶ月後の命日で、2人の写真を並べて花と線香をたむけ、彼からもらった品を身につけての死だったそうです。遺書には抱月の墓に一緒に葬って欲しいと懇願する言葉が書かれていましたが、正妻でない彼女の願いが叶えられることはありませんでした。 享年34歳
この悲劇の女優について明主様は「団十郎の芸」という御論文の中でこのように述べられています。


「ついでに女優として名人の中へ入れてもいいと思う一人をかいてみよう。それは彼の有名な松井須磨子である。私は彼女の売出した初舞台であるイプセン劇「人形の家」のノラに扮した時である、まだうら若い女優として、その優れた演技には驚歎の目を瞠(みは)ったのである。それ以来彼女の舞台は見逃す事が出来なくなってしまった。そうして最後に観た彼女の舞台は中村吉蔵氏作「肉屋の女房」と「カルメン」の二つの狂言であったが「肉屋の女房」は亭主の嫉妬のため、カルメンはホセのためどちらも殺害される筋であったのも不思議と言えば不思議である。私が見た日から二日目に彼女は自殺したのであったが、何ものかを思わせられるような気がした。しかしながら死の二日前の舞台に立っていささかの破綻も見せなかった彼女は、俳優としての心掛によるものと感心したのである。」
昭和24年8月30日


その後この悲劇の物語は何度も映画化されていますが、「女優須磨子の恋」(松竹S22)か、「女優」(東宝S22)は明主様の印象に残った映画に上げられているものだと思います。


まったく個人的思いなんですが、黒澤明監督の「生きる」(東宝S27)の中で「ゴンドラの唄」という曲がなんども流れてきます。
この曲はツルゲネフ作「その前夜」で、松井須磨子さんが歌った劇中歌で、映画「生きる」も素晴らしい映画(信仰的には???)ですが、
この曲の歌詞とメロディーを聴くと、須磨子さんともだぶって、なんか泣けちゃうんですよね〜!
だから最後はやや強引に「ゴンドラの唄」の歌詞を、、、どうぞ!
関係無いからブログに書けって? いいの、いの!勢いですから。



   1 いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
     朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
     熱き血潮の 冷えぬ間に
     明日の月日は ないものを
   2 いのち短し 恋せよ少女
     いざ手をとりて 彼(か)の舟に
     いざ燃ゆる頬を 君が頬に
     ここには誰れも 来ぬものを
   3 いのち短し 恋せよ少女
     波に漂う 舟の様(よ)に
     君が柔手(やわて)を 我が肩に
     ここには人目も 無いものを
   4 いのち短し 恋せよ少女
     黒髪の色 褪せぬ間に
     心のほのお 消えぬ間に
     今日はふたたび 来ぬものを

                                            




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