熱海の諸施設 (東山荘・仮本部・碧雲荘)


東山荘


箱根に移転されてから3ヶ月後の昭和19年8月、明主様は熱海の東山に程近い家を購入され「東山荘」とされました。
こちらへ10月5日に移られて以降は、秋〜春を熱海にてお過ごしになり御神業にあたられました。
東山荘は約4年間明主様の御住いとなり、別館の建物は揮毫や、原稿の口述、信者とのご面会の場所として使用されました。写真は東山荘表門です。



海山の 眺め好きかな豊かなる 温泉もありて熱海飽かなき

冬籠る 部屋の玻璃戸(はりど)に静かなる 伊豆の海原日々眺めゐぬ
                                 昭和20年2月14日



写真は明主様の御住いの本館越しの海。 ホントい〜いところ!御歌からものんびり感が伝わってきますね。
しかし。。。!



「十九年春箱根へ、同年秋熱海へ移住する事となったが、困る事には大宮警察での拷問によって虚偽の調書を取られ、それが警視庁へ廻ったので、当局は岡田という奴怪しからん奴だと、ブラックリストへ載せられたのである。従ってその後は行く先々の警察へ通知が行くので、その土地の警察からは始終睨まれ、警戒されたので、毎日毎日不愉快な日を送ったものである。というのは私はその当時民間療法専門であったが、治った人達は私を神様のように慕うので、警察はあいつ隠れて宗教宣伝をしているに違いないと思うと共に、以前不敬問題を起した大本教の残党であるから、秘密に大本教再建を目的としているだろう、との疑いがあったからでもある。」
昭和27年 未発表



「東山荘に来た時ですね。熱海の警察署から二人来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人、女が何人、いつごろ帰ったと記録していたんですからね。だから時々変な男が家のまわりを見にきたりするんで、だから気持ちが悪くてね。それで、天国会の中島さんがやっている時警察が来て、病気が治るということは、つまり観音様で治るのではない。陛下の御稜威(みいつ)で治るんだ。陛下の御稜威で治るというのを言うのなら良いが、観音さんで治ると言ってはいかんと、そういうことがありましたね。そんなこんなだから、やり悪(にく)かったんですよ。」
御講話 昭和27年6月7日



「私が熱海へ引移った早々、警察吏がある嫌疑で訪ねて来た時、ラジオが二、三台あったので、それを専門店へ運んで綿密な検査をさせた事があった。どういう訳かというと、アメリカと短波で通信しているという疑いからだと聞いて実に滑稽と思った。また東山荘の向かい側の家に刑事が張込んでいて、日々出入の多くの信者を詳細に記録したという事もあった。
 その頃、特高主任の歎声を聞いた事がある。「岡田の奴を挙げようとして随分査べたが、何にも材料がないので困ってしまう」というので私は笑わずにはおれなかった。なぜなれば、材料があるから挙げるので、何にもなければ良民である。それを困ったというのは故意に犯罪者にしようとするからである。実に解するに苦しむと言った事がある。これらによってみても当時、いかに封建的警察制度が人民を苦しめたかが窺(うかが)われるのである。」
昭和24年12月30日



「塀の穴からのぞいて、今日は男が何人、女が何人、合計何人と報告するのです。そうして時々は特高などが来ていろんなことを聞いて、年中白い目でギョロギョロ見ているのですから気持ちが悪かったです。」
御講話 昭和28年6月16日


きっとこの辺りにも怪しい人影が。。。何て、かく言う小生もカメラ持ってウロチョロと、けっこう怪しいかも!?
それにしても同じような写真ばかりでしょ!実はお屋敷の写真持ってないんでございます。時々開放されているようだし、その内いづのめ教団さんに聞いてみましょう!
ヘボでも写真の無いかつお式は「へのつっぱり」ですが、このページは最後までこの調子でございます。。。m(__)m



先の御論文のように、戦時中はとにかく宗教色を封印しなければならなかったようです。東方之光誌の一節によると、(景仰

「終戦の翌月のこと、1人の布教師が箱根へ献上品を持って行ったまま気分が悪くなり、倒れてしまった。人の知らせで浄霊を取り次いだ教祖は、本人の気分が回復すると坐り直し、威儀を正して朗々と天津祝詞を上げた。まわりに居合わせた信者たちは、戦前から戦中にかけて、民間治療の時代に神縁を結ばれた者がほとんどであったので、初めて聞く天津祝詞に驚くとともに、その荘厳さにもったいない気持ちでいっぱいになり、立っていた者も腰を落として坐り込んでしまった。」

とあります。 ちとビックリです!


昭和20年8月15日終戦を迎えると、早速年内に後年「救世(メシヤ)会館」が造られる事となる5000坪の傾斜地を購入され、翌21年からは箱根と同時進行で瑞雲郷の建設が始められました。
一方、民間療法から宗教法人に改めるにはなお、昭和22年の新憲法制定まで時を待たれます。

写真は東山荘近くから見た瑞雲郷。

「今に、この向こうの山に、何千人も収容できる建物を造る」

と、東山荘の御面会の席で仰っていたそうです。
お山がまだ未開の山林だった頃に、ここから建設の御構想を練られたとも拝察されます。
戦争が終わって民間療法として大発展し、宗教法人となりさらに大発展をとげると、今度は金目当てのユスリ団の横行が始まりました。新聞の無責任な報道などもあって東山荘には毎日のようにその輩が訪れたそうです。


「大新聞が、本教資産二、三十億とかいたのであるから堪らない、これらによって今もって何らかの手段を講じ、あの手この手で金を出させようとする者が跡を絶たないのである、今日といえども金貰いはほとんど来ない日はないといってもいいくらいである、実に昨秋以来今日までにおける大小の諸問題は全部といっていい程これに関連しないものはない、そのために専門のユスリ係を置いてあるが、その折衝に毎日忙殺されているのが実際である、」
昭和24年10月15日


この様なパリサイ新聞の間違った報道や、ユスリ団の圧力、妬み、誤解、そして急激な発展に対する教団組織の不備、法律知識の欠如などは、この後の御法難へと繋がる一因となってしまいました。



清水町仮本部

昭和22年宗教法人「日本観音教団」が発足すると、その発展は凄まじく、東山荘別館での御面会はすでにオーバーフローしていました。そこで昭和23年5月に清水町にあった某石油会社社長の別荘を購入して「清水町仮本部」とし、熱海での御面会所とされました。
仮本部は敷地約1000坪(3300u)、建物約170坪(560u)と、かなり大きくなりましたが、入りきれない信者は庭に立っての御参拝、御面会だったそうです。
明主様は一時期仮本部で寝起きされていた時もあったようですが、マスコミやユスリから離れて御神業に集中する為もあったのかもしれません。。。?
東方之光誌の略図だけを頼りに行ってみると、今はスーパーになってました。
清水町仮本部での出来事と言えば、やはり昭和25年4月13日の熱海大火での一件でしょうか。。。 



昭和25年4月14日 朝日新聞
熱海また大火
心臓部全滅1015戸焼く


[熱海発] 13日午後5時15分ごろ熱海市渚町渚海岸埋立地の○○組土建事務所から出火、折から海上から吹きつける東南の潮風にあおられ埋立地一帯を一なめにし火はみるみる燃え拡がり、渚町から本町、浜町、銀座通に延びさらに菊園町、清水町、糸川町(花柳街)をなめつくし市役所、警察署、消防署、郵便局(半焼)など心臓部は全滅、露木、錦屋、新かどなど宿泊客約3万といわれる旅館のうち47軒を焼失、市署の発表によれば焼失概数は1015戸、被災者4817名を算し、午後12時ようやく天神山下の別荘街と鉄道官舎の一角で破壊消防によって火の手をくいとめ鎮火した。


新聞報道のように、この大火は熱海始まって以来の大災害でした。
これは同新聞の焼失状況図で、右側がほぼ北になります。
赤●が仮本部の場所なので焼失区域になってますが、正に奇跡によって仮本部の建物だけが焼けませんでした!


「また家にも霊があるから、その家の主人が有徳者であると、家の霊衣が厚いから、火事の時など火の霊はそれに遮(さえ)ぎられて、燃え移らないのである。熱海大火の際、本教仮本部が不思議に焼けなかったのもその意味である。しかし稀には焼ける場合もない事もないが、それは焼ける必要があるからで、これは神様の経綸のためだが滅多にはない」
昭和26年6月6日


当時の様子を東方之光・景仰誌等をミックスしてみますと。。。
この日明主様も碧雲荘から仮本部へ駆けつけて来られ、御神体や書の他、荷物の運び出しをしている信者を労いつつも、「ここは燃えない」とキッパリ仰って、「だが、出す物は出しておきなさい」とお命じになったそうです。そして「お前たちの荷物はどうなんだ。出したのか」とお尋ねになり、「いいえ、明主様のお荷物を先に」と申し上げると、「少しぐらい残っても大丈夫だ、みんなの荷物を運びだすように」と仰って炎に向って浄霊をされたそうです。
午後7時半頃には火はついに仮本部に達しました。
碧雲荘にお戻りの明主様の元には次々に報告が上がります。「焼けました」。。。「焼けています」。。。しかし明主様は「いや、焼けない」とキッパリと仰ります。しかし「清水町も旭町もあぶないだろう。 だから、みんなにそう言って避難準備にかかるように」と指示を出されました。また同時に「仮本部だけは焼け残るだろう。」と言い切られたそうです。
北東から迫ってきた火は仮本部の南側に飛び火し、午後8時頃には南北の火が東で合流して仮本部は三方を火に囲まれる状態となりました。
バケツや洗面器などで屋根・壁を濡らす人、荷物を運び出す人、火に向って浄霊をする人、家財道具を仮本部に運び込む、向いの果物屋のおやじ?など、皆が炎と戦っていました。
門も庭木も焼け、万事休すと思われた10時頃、にわかに風向きは変って火は背後に押し返されるようになり、仮本部だけが絶海の孤島のような状態で焼け残り、12時頃鎮火したそうです。
向かいの果物屋は家財道具がそっくり助かり、「やっぱりお光さんはちがう」と嬉しそうに話していました。(誉)



また大火の翌々日の某全国紙に、チョコッと仮本部の事が出てましたので、ご紹介しますと。。。



国立国会図書館 蔵
「お光様こと観音教本山は幸いに延焼をまぬがれたが同本部のある汐見町一帯は全焼した、この辺が焼けたのは13日夜の11時過ぎで火災は下火になっていたが、このため教団本部では10名の信者が本殿屋上に上って “オサスリ” --病人などの患部をなおす時にする神技-- を夢中にくり返していたが四方が猛火に包まれてついに7人がねを上げて屋根から下りてしまった、しかしあとの3人は最後まで頑張ってオサスリをしたので助かったと気勢をあげている。」



相変らずのひどい記事ですが当時の状況も伝わってきます。10人中7人が脱落するほどの猛火の中を、この名も無き?3人の方は明主様を信じ、屋根の上から炎に向って浄霊をし続けていたんですね。火は三方向から迫っていました、1人持ち場は一方向です。もう誰も欠けられない!!!
そして夜10時頃、にわかに風向きが変わって火は押し戻され、仮本部を迂回するように延焼していきました。 さて自分だったら残れただろうか。。。???
このオチョクリ論調記事が社会の目だった事を鑑みると、記事がかえって小生に感動を与えます。


熱海大火での奇跡はこれだけではありませんでした。仮本部の門のすぐ横にあった光新聞の出張所はすっかり焼けてしまったのですが、翌朝その焼け跡を片付けていると、その灰の中に機関紙が高く盛り上がって焼け残っていたそうです。それは「光」創刊号と「救世」53号でしたが、「光」紙は第1面の明主様御尊影を避けるように燃え残っており、「救世」紙も同様に明主様御揮毫の「大弥勒像」を避けるように燃え残っていたそうです。皆は作業の手を止め、この新聞の周りに集まって感動を分かち合い、1枚づつ頂いてその信仰を堅め合ったそうです。
御尊影、明主様の書・画は例え新聞の印刷であっても疎かに扱ってはいけないという証拠ですね。御論文もしかり!


では最後に明主様の寸鉄で、スッキリ!


 今度の火事で、観音教団は燃えてしまったと二、三の有力新聞は報じている、これはチト迂闊(うかつ)だ、観音教団は数ケ月以前に解散しもはや無くなっているはずだよ、しっかり頼むぜ
※昭和25年2月4日=世界救世(メシヤ)教発足、4月13日=熱海大火、 ったく、しっかり頼むぜ!

 今度の火事で、周囲焼野原の中に本教建物はビクともしない、へンどんなもんじゃい
昭和25年4月22日



咲見町仮本部


本にヒントがなかったので場所は判りませんでした。ちょっと聞けば判るんでしょうけどね。写真もひどいなぁ。。。駅から歩いて来れます。
こちらは「日本観音教団」から分かれた「日本五六七(みろく)教」の本部として、当初渋井總斎先生が建設を始められた場所でしたが、清水町仮本部が手狭となり、また大火で荒れていた事もあって、明主様より「建設中の咲見町の建物を仮本部としたい」とのお言葉を頂き、建設を急ぎ、世界救世(メシヤ)教の仮本部として完成した建物でした。
渋井先生は浄霊力に優れていた上、大黒様のような方で、このような物質的御用に関しても枚挙にいとまが無かったそうです。



「五六七教は渋井がいままで五六七会長としてやってきたが、あの人が十のうち六、七の成績を挙げている。他の会は全部寄せても三くらいで「ケタ」が違いすぎる。従って観音教団の中では活動しにくい。思う通りにやりたいというので、一応もっともだと思って別にしたんです。」

--別派と考えてよろしゅうございましょうか?--

「ええ別派です。が、五六七
(みろく)も観音も元は一つです。キリスト教にだってカトリックもあればプロテスタントもある、これと同じです。観音様が縦なら五六七は横と思えばよい。結べば一つなんだから。もう少したったらまた分派ができるかもしれないし、またその先は一つになるかもしれません。名称だってそうですよ、時勢に応じていろいろに変わるんです。」
御光話 昭和23年12月28日


「なぜ二つに分けたかというと、すべて物には陰陽があり、夫婦があり、経緯(たてよこ)があるごとく、両者長短欠点を補い合い進む事こそ、発展が速かになるのであって、言わば左右の腕ともいえる、これが真理である。」
昭和24年3月8日


そして昭和25年2月4日、この経と緯は結ばれ世界救世(メシヤ)教が誕生し、昭和29年6月15日メシヤが新しく御降誕されました!
そしてその後はぁ。。。 。。。たくさんの経と緯が生れました。。。━。。。いつか全ての経緯、各使命が結ばれ完成し、以って万教帰一に至ると信じます! (かつお式)
では現実は?手前ども救世教だけでも2年後の「結び」はどーなることか。。。 。。。斜めだと×ですよ(苦笑)。
いや笑えん、小生では具体的方策は全く思いつきませんので、御論文を拝読して我執を減ずる事から始めたいと思います。
バス停だけで引っ張り過ぎました。。。& かつお式過ぎました m(__)m


先日
熱海にて御参拝後バス停に行ってみたら近くにありました。旧咲見町仮本部!

三階建ての立派な建物でした。渋井先生はビックだな〜! 


「それで鼻というのは、始めるとか、とんがった先のこと、岬などを“ハナ”と言いますが、そういうようなもので、これが舟の舳にもなるのです。それで私は箱根の神山荘に最初行った時に、洋間が舟の形になって、応接間が舟の舳になるのです。それであれが鼻になるのです。神様はうまくこしらえてあるなと思ったのです。ですからここ(咲見町仮本部)もそうなってます。こうなって舟の形です。そこ(ヴェランダ)が鼻になるのです。」
御講話 昭和27年11月6日


※世界救世(メシヤ)教の船出を意味する良い形だそうです!


こちらは昭和25年12月23日から救世(メシヤ)会館が完成するまで、熱海での御参拝・御面会所、宿泊所として使用されました。神人合一後メシヤとなられるまでの期間の、熱海における中心的施設でした。
今はMOA熱海という名称で、普通に一拠点として使用されています。
今だ現役なところが何か涙もの。。。
維持管理は大変だと思われますが、いつまでも残っていてほしいな〜!


寄稿 「新仮本部使用に就いて


ここはMOA会員以外の方は訪問しづらい場所と思われ、大変恐縮ですが、
咲見町仮本部潜入レポートにつきましては。。。
有名な某優良ブログにてどうぞ (^o^)/ 
09.5.12追記



碧雲荘


清水町に仮本部を設けられて間もなくの昭和23年秋、今度は水口町にあった宮家の元別荘を購入されて熱海での御住いとされました。そしてこの御住いを「碧雲荘」と命名されました。しかし当初はマスコミ、ユスリ、タカリを避ける為その存在は内密にされていたそうです。宝山荘、東山荘では鉱山経営をしていた関係で、表札はあえて「岡田鉱業所」と、していたそうです。こちらでは如何に?
また碧雲荘のロケーションは絶景を楽しむと言うよりは、落ち着いて御神業ができる環境というイメージですがぁ。。。よくわかりません。
碧雲荘の時代といえば御法難その他事件、大火と共に、最も重要なる御経綸の時期であり、御多忙を極められた時代でした。そして神秘の御浄化、メシヤ御降誕の後に御昇天なされた場所としても、碧雲荘は大きな意義をもつ場所と言えます。
しかし現在碧雲荘は、特に写真や場所の公表もされておりませんので、小生も右に習い画像等は控えさせて頂きます。
つーか御門の画しか無いんですけどね。 じゃ、どーしようかなぁ。。。で、とりあえず仮本部跡へ戻りつつ、小生の大好きな景仰の一節を拝読したいと思います。


「碧雲荘にお住いになっておられて、清水町の仮本部で御面会があった昭和24年頃のことであります。--中略--ちょうど、その時お嬢さまの三弥子さまが、急に体が悪くなられまして、早速、碧雲荘から仮本部におられます明主様の所へ、お電話をいたしますと、折返し、「明主様が、『すぐ行く』と仰った」との連絡がありましたので、碧雲荘では奉仕者の美代子さんが、玄関のところでお待ちしていたわけです。
そこへ着物の端をひっぱしょりながら、いきせき切って、明主様がおいでになったのです。そして、玄関へ出迎えに出ている元気な美代子さんの顔を見るなり「ああ、お前、もう良くなったのか。良かったな」と仰ったそうです。と言うのは、明主様はお嬢さまの三弥子さまと美代子さんとを名前がよく似ていた為に聞き違いをされて、てっきり、美代子さんが浄化しているとお考えになっていられたのです。それで美代子さんは、「いいえ、私ではありません。三弥子さまでございます」と申し上げますと、「ああ、三弥子ちゃんか」と仰ってホッとされたと言う事です。そのご様子を見て、美代子さんは、明主様はお嬢さまの為にお帰りになったとばかり思ったら、実は奉仕者である自分の為に飛んで帰って下さった。しかも、清水町から碧雲荘へは登り坂ばかりの道で、私どもでも走ったら、それこそ息が詰まるような状態ですが、そこをかけ足でかけつけられ、一刻も早く浄霊をして下さろうとの、明主様のご心情を思い、もったいなさに、思わずその場に土下座してしまったとの事であります。」 [管長]


もったいなさに土下座してしまった、美代子さんの気持ち、わかるなぁ。。。(感涙)
そこで小生も体でわからせて頂くべく、明主様の追体験で碧雲荘まで走る事にしました! かつお式、意味ねぇ〜!
スタートは推定清水町仮本部正門から碧雲荘正門まで!
明主様は御歳67才、小生はYoung!(爆)、履物もスニーカー頑張るゾ〜!ではスタート! 
突然走り出すから周りの人が、「なんだぁ。。ありゃ。。。」


最初からとばすとヤバイので、やや減速し、急坂となって小走りに。。。そして早歩きで、ゴール!
時間は思ったより早かったけど、足パンパン、グタ〜ッ!
明主様という御方を、チョッピリ感じさせて頂けたかも。。。
明主様は今もきっと、このご心情で私たちに御守護下さっております!
だからお任せする! だから大丈夫!



はみだし


明主様は昭和30年2月10日午後3時33分、現界での御神業、御教え、型など全てを完遂され、ここ碧雲荘にて御昇天あそばされました。
右の新聞はその報を告げるもので、右下赤枠がその記事です。
茫然自失の中、ふと視線を上げ紙面中央左の記事を読むと、「西日本で気圧変動、大島などに不明の爆音」とあります。
これは御昇天の前日の丁度同じ時刻に、東日本から西日本にかけての広範囲にわたって、謎の爆音や、気圧変動が起こったことを報じた記事です。
心ある人々は、この現象について御昇天に先立ち自然界に現れた神秘、明主様を讃える天の儀礼砲の響きと信じて疑わなかったという事です。


昭和30年2月11日 朝日新聞
西日本で気圧変動
大島などに不明の爆音


東京中央気象台測候課に入った報告によると、9日午後3時半ごろ富崎、大島、三宅島、静岡など各測候所で原因不明の爆音が感じられ、また同3時から6時ごろにわたって広島など西日本各地で1mbないし0.7mb程度の気圧変動が観測された。引続き10日には午前11時から正午ごろにわたり大阪、広島などから0.1mb程度の気圧変動も報告されたため中央気象台では各地測候所から自記紙を集めるなど原因調査を始めている。
気象台の説明によると、このような気圧変動は人工的な爆発、火山などの場合に発生する現象だというが、いまのところ資料不足のためはっきりとした原因は分からないといっている。


その後、この爆音と気圧変動の因果関係は否定されたが、今もってその原因については不明のままである。
なお記事の中にある富崎とは、あの「鋸山」に程近い館山にあった測候所の事である。。。



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