築地


築地といえばやはり築地市場、それと本願寺が有名です。しかし明主様が住まわれていた明治35年〜38年頃、魚河岸はまだ広重の浮世絵よろしく日本橋のたもとにありました。本願寺の方は当時もココにありましたが、現在の建物は昭和9年落成のもので、震災前までの本願寺は木造の大伽藍、本堂の向きも西南(写真右)、今の晴海通りの方を向いていたそうです。ご本尊は聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来様であります。
 もともとの本願寺は浅草にあって「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦の大火で焼失、再建の代替地として八丁堀沖の海上を埋め立て、延宝7年(1679)ココに再建されたそうです。土地を築いたことから「築地御坊」と呼ばれ地名の起源となりました。浅草からの移転とはなんとなく御縁を感じてしまいますよね。
また本願寺には江戸時代に琳派を復興させた絵師、酒井抱一の墓が今もあり、これもまた御縁浅からぬ感があります。


そんな本願寺の東の並びに御住いはあったようです。しかし築地は震災で焼け野原になってしまった地域、その後の復興計画に基づく道路整備、区画整理等で住所はだいぶ変わっているかもしれません。
とりあえず昭和6年のその住所周辺と、「東方之光」誌略図の位置とだいたいイイ感じなので(緑●)そこに行ってみました。


姉志づさんの死後まもなく父喜三郎氏は貸席「静月」を売却し、一家で築地のこの辺りに移ってこられました。都会の一等地の繁盛店を売却するからには、きっといいお金で売れたんでしょうねえ。。。
そのお金で家作を建て、自分達はこの辺りの仕舞屋(しもたや=商売をしてない家)に住み、生活は家作の家賃収入でまかなえるようになりました。経済的にゆとりができ、また明主様の健康も快方に向かい、ここにきて父喜三郎氏の岡田家にとって最も幸せな時代となりました。しかし約3年後、喜三郎氏は病の床につき53歳の若さでお亡くなりになります。良き理解者でもあった父の死は明主様にとって大変深い悲しみでありました。
 この頃の明主様といえば20歳〜23歳の所謂青春時代です。明主様はこの時をどのように過ごされたんでしょうか。勿論大好きな活動写真鑑賞や、寄席、歌舞伎にはよく出かけられたようです。しかしこの頃力を入れていた事は持ち前の向上心から、様々な興味への探求や、読書を中心とした勉学であられたようです。


ゆくゆくは父の夢である、書画、骨董屋の店を2人で開きたいと考え、散歩がてら夜店の骨董の品物を見て歩き、父と批評をし合いながら骨董や、美術一般に対する眼を養っていかれました。
また蒔絵に興味を持たれ、職人に学びながら、やがては下絵から仕上げまでの全工程をひとりでこなされ、評価を得るまでに習熟されました。
 読書にも尚一層の力をいれられました。当時はやりだった財界人の立志伝などを好んで読むと共に、西洋哲学の図書も多く読まれ、後に御論文にも度々登場する、アンリ・ベルグソンや、ウィリアム・ジェームズなどの哲学に出会い共鳴されたのもこの頃の事です。
 新聞は多くの種類を購読されてました。中でも社会正義の立場で戦っていた新聞「萬(万)朝報」(よろずちょうほう)は待ちこがれるようにして読まれたそうです。


「昔万朝報という新聞の社長であり、また翻訳小説でも有名であった黒岩涙香(くろいわるいこう)という人があった、この人は一面また哲学者でもあったので私はよく氏の哲学談を聞いたものである、氏の言葉にこういう事があった、それは人間は誰しも生まれながらの自分は碌(ろく)な者はない、どうしても人間向上しようと思えば新しく第二の自分を造るのである、いわゆる第二の誕生である、私はこの説に感銘してそれに努力し少なからず稗益(ひえき)した事は今でも覚えている。」
昭和25年3月18日

この黒岩涙香(周六)という人物は、明治34年に社会改良団体「理想団」を結成し、労働問題、女性問題、普通選挙運動、動物愛護運動等々に関り、社会の改良を目指しました。この団体から初期社会主義活動に傾倒していった者が多かった事実もありますが、このような涙香の社会救済の考え方は、正義感が強く、若く純粋な明主様の心に深い共感を与え、後に社会正義の為、新聞事業を志すきっかけのひとつともなりました。さらに後には涙香とは別の方法、もっと大きな使命から、人類救済の活動をされる事となります。

明主様が涙香の講演を聞いた惟一館(いいちかん)は、「東方之光」誌にある神田ではなく芝ではないかと。。。写真は港区芝にあるユニテリアン教会・惟一館跡の友愛会館です。日本労働運動発祥之地の碑があります。


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