会食会


宝山荘(玉川郷)時代は官憲との戦いの時代でもありましたが、特に昭和15年11月の第二次玉川事件の後は、監視も厳しく弟子達を前に明主様がお話をされるのは非常に危険な時代になっていました。そこでホテルや料亭などで「会食会」の名のもとに明主様のご指導を仰ぐ、と言う方法がとられました。
このページでは、会場に使われた場所で小生が偶々近くに行った場所だけですが、写真でご紹介したいと思います。
かつお的には、偶々なんて不遜な気持ちで?その場所に立っておりますが、当時は日々起こる様々な問題、重責、そしていつ投獄されるかわからない状態の中、御先達の方々は必死で明主様のご指導を仰いだことと拝察されます。
この会食会開催のきっかけの一つとなったのが、第二次玉川事件直後に開かれた明主様の誕生祝いでした。


誕生日にて東中野、日本閣へ招かる。吾とよし子の外計二十五人なり。新体制の食後、歌笑冠句等ありて歓声旺(さかん)なりき。
昭和15年12月23日 日記


いやいや、こんな時こそ笑いをお忘れになっていなかったようですね。すごい方々です!




日本閣
現在もJR東中野駅近くにあります。今はこんなに洒落た建物になり、料亭の雰囲気はまったく残っていません。入り口には黒人のドアマンがいて、かっこ良くサービスをしています。
ここにあった嘗ての「日本閣」で、昭和15年、明主様58歳の誕生祝いが行われました。約1ヶ月前に第二次玉川事件があり廃業したばかり。しかしこれも霊的にみて一段階上がった事であり、弟子にお守りのお取り次ぎを許す変革も「新体制」と呼んで前向きに受け止められていました。その発足の祝賀の意味も込めた御誕生祝いでした。
そしてこれを機に「会食会」と言う名の「指導会」が、主なる弟子の主催で定期的に行われるようになったそうです。第一回の会食会も中島一斎先生主催により、ここで行われました。



「その月の二十三日は私の五十九歳の誕生日であったので、信者中のおもなる二、三十人が日本閣という料亭へ私を招いて、誕生祝をしてくれたその時出た歌に

 キリストも釈迦も再び生れ来よ 汝(なれ)と吾との力試さん

というのがあった。」
昭和24年12月30日


この日明主様は御歌27首を発表されたそうですが、その中の一部をご紹介いたします。


善き事を 悪しとみらるる世にありて 何をかせんや懐手すも
世の為に 竭(つく)す真人は何時の世も 茨の道をくぐるものにや
超人の 力隠して荒みゆく 此現世(うつしよ)を静かに視護る
行手には 光明見えて胸ぬちに 希望の泉み湧き出づるなり


戦時体制下の当時は、日常物資、食料、エネルギー、何もかもが不足で、足りない食料は信者の持ち寄りだったそうです。また時々停電になり祝宴が中断されたり、暖房も貧弱な為、皆寒さに震えながら御誕生を祝い、歌や笑冠句に興じられたそうです。
こうして厳しい状況の中でも、天国的に、楽しく御誕生の祝いをされました。そして厳しかった昭和15年という年も残り僅かとなり、静かに暮れていきました。。。
と言いたい所ですがぁ、どうやらそうはいかなかったようです。



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料亭幸楽
昭和16年6月、M先生主催により「東光会」の発会式がここで行われました。明主様を中心にして40名余りの方々が並ぶ記念写真が残っています。お写真を見る限り相当大きな会の発会で、会場も相当豪華だったようです。
しかしここ幸楽はこの5年程前には226事件の最前線となっていました。昭和維新・尊皇討奸(とうかん)を掲げる青年将校ら反乱軍はここを占拠し本部としていたからです。発会式でもそんな話題が出たかもしれませんね。
余談ですが、その後「幸楽」は大戦末期、本土防衛戦で撃墜されたB29の直撃を受け大破全焼してしまったそうです。
そして平和な時代となった1960年、跡地には当時の日本を代表する高級ホテルが建てられました。 






それが、ホテルニュージャパンです。
(えっっ!あの横井英樹の。。。)そしてご存知のように1982年に大規模火災を起こして33名の尊い命を奪いホテルは廃業しました。そして現在は。。。




(あれ?このビルどっかで見たことが。。。)そう、日枝神社から見えたノッポビルです。
 プロレスラー力道山が刺され(後に死亡)たのも、ニュージャパン地下にあった「ナイトクラブ・ニューラテンクォーター」、どうも昔からイワク付きの土地です。
その後ホテルニュージャパン跡は都心の一等地にして14年間も焼け焦げた建物が放置され、横井氏はバブル期の土地高騰に乗じて土地を担保に巨額の融資を引き出した後バブル崩壊、しかたなく最大債権者の千代田生命保険が自己落札して1999年オフィスビル建設に着工しましたが、その直後の2000年に突如経営破綻となってしまいました。(なんか恐ろしくなってきた!)その後は、ユダヤ資本の米大手生命保険会社が買収して森ビルと共同でこのビルを建設、現在に至っています。今後は何事もなければイイんですが。。。
幸楽からだいぶ脱線してしまい、興味本位で書きすぎたかもしれませんが、あえて続ければ、ここで発会式を上げた東光会にも大変な不幸がありました。
昭和18年以前から疎開を奨励していた明主様でしたが、M先生の東光会にも「深川辺りは危ないから」と再三注意をされていたそうです。昭和19年には東京都心在住の信者はほぼ疎開を終え、5月には明主様も移転されました。それでもM先生は曖昧な返事で何故か動こうとされなかったそうです。已むを得ない事情があったかもしれませんが、どうやら最高の神様をご奉斎している以上、ここは大丈夫であると言う絶対の自信をお持ちだったようです。しかし昭和20年3月10日の大空襲は下町を中心に死傷者12万人の大被害をもたらし、先生のご自宅辺りも完全に焼けおち、黒こげの金庫ひとつがころがっていたそうです。そしてその後M先生ご家族5人と、幹部の方々も亡くなった事が確認されたそうです。強い信念は大変尊く、重要ですが、素直である事もさらに重要であると教えて下さっている様で、先生以下皆様のご冥福と、さらに全ての戦災犠牲者の方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。 




星岡茶寮
この鳥居は日枝神社独特の山王鳥居。右奥の建物はビートルズも泊まった「キャピトル東急ホテル」!このホテルの敷地内に嘗てあったのが、有名な北大路魯山人(きたおうじ ろさんじん)氏の伝説のお店「星岡茶寮」です。なにしろ美食倶楽部ですから、物資不足の当時でも相当マニアックな旨い物が出たんだろうなぁ。。。それから相当高かったんだろうなぁ。。。
当時の明主様は経済的にかなりきびしい時代でしたが、これら会食会の費用は全て主催者始め信者持ち寄りで行われたようです。当時のお弟子や信者さんがたも、お金や物資には不自由された頃と思われますが、明主様には何とか最良のおもてなしを、と常に考えられていたようです。出版物も限られ、また自らも弾圧の対象とされていた当時の信徒にとって、明主様にお会いし直接ご指導を頂けるこの会こそ、何物にも替え難い機会でした。


昭和19年に明主様が箱根へ移転されるまで、このような会食会は開かれていたそうです。
会場としては上記の他、ここ「上野精養軒」や芝「紅葉館」、「帝国ホテル」、「宝亭」、目黒「雅叙園」、「大東亜会館」、「リッツ」、丸の内「中央亭」、新宿「東京会館」。。。 


横浜の「一楽」、「平安楼」、「偕楽園」などの超有名店で開催されました。 


そんな中でも丸の内「中央亭」は、特によくご利用になっていたようですので、また次のページでご紹介したいと思います。(空き地も多いしねェ)


はみだし


ビートルズご宿泊の最上階スウィート1005号室はたぶんココ!でもこの建物はH18年に閉鎖され、今はもうありません。
ちなみにその後の「星岡茶寮」は、宝山荘のお隣さまでもある、あの五島慶太氏に売却されて「星ヶ岡茶寮」となりました。だからココは今でも東急資本です。
これ街角で見かけた魯山人氏!ただのお茶のCMですけど。。。
「美味しんぼ」のモデルともなった無類の美食家、芸術家、そして超ヘンクツ親父だったらしいです。でも小生何を隠そう氏のレシピを食した事があるんですよ!つーか今週もね!。。。
納豆茶漬けでしたぁ〜(笑)年がら年中凄いもの食べていた氏も納豆好きだったようです。でもお茶漬けなんて?!
ところが旨いんだなぁ〜。氏の偉大さを感じます!
チトおおげさかな。





     

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