浅草寺
浅草の観音様は、明主様が乳飲み子の頃から闘病中の17歳までの間、いつも近くにあられて見守って下さっていました。
その浅草寺の歴史は大変古く、浅草寺縁起によれば推古天皇36年(628)3月18日、隅田川で漁猟中であった檜前浜成、竹成(ひのくまのはまなり、たけなり)兄弟が、1寸8分(約5.5cm)の黄金の観音像が網に掛っているのを発見!それを拝した土地の豪族、土師中知(はじのなかとも)は“これは大変尊い像である”として自ら出家し、屋敷を寺にしてご供養をされたそうです。これが浅草寺の始まりとされています。その後大化元年(645)上海上人がこの地に観音堂を建立し、ご本尊を秘仏とされました。今でもその戒は守られており、このことで庶民の間では、ご本尊の聖観音像は本当はないんじゃないか?という噂が今でも残っています。
「観音様の祀ってある所には必ずその付近に大仏様があります。大仏さんは阿弥陀さんであります。これは日本と外国、夫と妻という事になります。--中略--浅草の観音様の傍にも大仏様があります。浅草は、特別の場所でありまして、観音堂はとても大きくて、大仏様は又、馬鹿に小さいんでありますが、これも大変な意味があるのであります。」 昭和10年7月25日 |
「昔から仏教においても、十八の数を良く用いている。浅草の観音堂も、善光寺も十八間四面であり、毎月の参詣日も十八日であり、十八を倍にすれば三十六でミロクである。」 昭和26年10月1日 |
色々な意味があるんだなぁ。。。しかし浅草の観音さまは今も変わることなく庶民の信仰を集めております。 ただ大きく変わってしまったのは、3代将軍徳川家光建立の旧国宝指定、(観音堂、五重塔及び、仁王門など)伽藍のほとんどが昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまったことです。分け隔てなく人を救う神も、無差別な爆撃で灰燼に帰してしまいました。これにもまた何か意味があるのかもしれない。。。そして時は平和になり、高度成長の昭和3・40年代に鉄筋コンクリート造りではありますが、これら失われた伽藍は再建され現在に至っております。 |
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この三角形はなにかと言いますと。戦災焼失前の浅草寺大屋根の忠実な原寸大、部分復元です。「江戸東京博物館」の外に展示してあります。そしてテッペンの鬼瓦は将軍吉宗時代、享保6年の大修理の際作られたもので、後の関東大震災の修理の時取り外され保存、戦災を免れたものです。 | |
ココ ココ!今の大屋根も悪くないけどぅ。。。江戸時代のも、ちょいと渋くて、なんか粋を感じません?! | |
これが明主様もご覧になった鬼瓦!享保6年(1721)〜昭和4年(1929)まで200年以上も観音様を守られた鬼瓦であります!チョンマゲみたいな先に卍紋、優しいお顔の鬼瓦です。銘には享保6年、浅草諏訪町、浅草瓦町で製作、作者:平井助左衛門とあります。しかしよくぞ残って下された。 |
いやいやまだまだ、残ってますよってんデー!ちくしょうーメ!(江戸っ子か!)言霊悪くて申し訳ございません。しかし残ってました〜!観音堂横にある浅草神社の社殿と、この二天門です。2代将軍秀忠の元和4年(1618)の建立から度重なる江戸の火事、大地震、戦災までも免れて400年近くもここに建っております!現在は国の重要文化財に指定されております。 火事と喧嘩は江戸の華!現在は物質的防火法によって火事はグンと減っております。しかしもしかすると穢れはグングン溜まっていて、霊眼をもって見ればどの家屋もどの街も、大廈(たいか)高楼(こうろう)もバラック建のお粗末な家屋が立並んでいるにすぎないのかもしれません。 |
はみだし
明主様が大日本観音会時代? 度々出席されていた浅草寺読誦会は、 現在もこちらの本堂で行われております。 |
駒形橋のたもとにある駒形堂通称「こまんどう」です。檜前の兄弟が隅田川で浅草寺ご本尊の観音像を発見し、この地に上陸して草堂に安置したと言われています。いわば浅草寺発祥の地です。初代浅草寺総門もこの辺りにあったそうです。浅草寺の観音堂寄進と同時にお堂は建てられましたが、度々火災にあい都度再建され現在のお堂は平成15年に建て替えられたものです。 ご本尊は馬頭観音なので駒形堂と呼ばれ、地名や橋の名の起源となっております。 |