貸席 静月


JR新橋駅より眺めれば、シティセンター、電通ビル、日テレちん、などちょいとかっこえ〜街、汐留シオシティになっとりますが、もともとはコンテナターミナルでした。その一番外れにむか〜し昔にあったのが、「汽笛一声、新橋を〜」の新橋ステーションであります。
明治5年(1872)に日本初の鉄道ターミナルとして開業した新橋ステーションは、現在旧新橋停車場として、その遺構の上に外観を再現され鉄道歴史展示室、レストランなどの複合施設として都会のオアシスとなっております。
もちろん静月の時代、明主様も利用されたであろう駅は、この場所、この駅舎であります。 
この新橋停車場からは徒歩6、7分、今は無き東京市電木挽町6丁目停車場からも徒歩1分の交通至便なこの辺りに、貸席「静月」はあったようです。
近くには、官庁、銀行、新聞社他、大会社が軒を並べる一等地でした。
今は高級料亭などが何件もあり、都会の中でちょっと落ち着いた雰囲気の一画になっています。




これは昭和6年の大日本職業別明細ですから時代は28年くらい下りますが、「東方之光」誌記載の旧住所の辺りに「静月堂」の屋号が見られます。もしや貸席「静月」を購入された方が「静月堂」としてここで商売をされていたとすればぁ。。。はじめてのビンゴ〜!かも?!「東方之光」の略図の運河と、現在その上に造られている高速を基準に対比してもイイせんきてるんで、きっとココでしょう。いや、そうしましょう!つー事で。


ココに2階建て、10幾つもの部屋をもつ手頃な貸席「静月」はありました!?ココには明治32年〜35年、明主様が17歳〜20歳までいらっしゃり、病が快方に向かうと養生のかたわら会計の手伝いをされていました。
(病が快方に向かうとぅ?)
そう。この約3年の間には肋膜炎に2度かかり、そしてついに肺結核となって。。。

※個人建物の為、拡大は控えさせて頂きます。



※平成21年にはビルが建つ予定です。
「私は、15歳の時、肋膜炎を病み、医療により1年位で全快、暫らく健康であったが、また再発したのである。しかるに今回は経過捗々(はかばか)しくなく漸次悪化し、1年余経た頃、ついに肺結核三期と断定せられた。その時がちょうど18歳であった。そうして最後に診察を受けたのが、故入沢達吉博士であって、同博士は、綿密に診察の結果、最早治癒の見込なしと断定せられたのであった。そこで私は決心した。それはどうせ自分は、このままでは死ぬに決っているとすれば、何らか変った方法で、奇蹟的に治すより外に仕方がないと意(おも)い、それを探し求めたのである。--中略--これは菜食もいいかも知れない。特に日本人はそうあるべきであると思ったので、断然実行すべく意を決したのである。」
昭和17年12月13日



この後、はじめは試験的な菜食をこころみ、次に薬剤を放棄し、ついに菜食を3ヶ月続けたところ三期肺結核、不治の病が完治してしまったのです。この経験が後に大きな教訓となったのは言うまでもありません。
しかしその一方で、今まで貸席の女将としてバリバリ仕事をしていた姉志づさんが、急性肺炎になり29歳の若さで突然亡くなってしまいました。
そして父喜三郎氏は「静月」の店を売り、その金で家作を建て、一家は隣町の築地へと移ることになりました。




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