明治37年(1904) 赤門及ビ医科大学ノ一部


 国立国会図書館H.P.より転載
※当画像及び上記H.P.画像の複製には、国立国会図書館の許諾が必要です。


東京大学の百年 1877〜1977より
明主様が肋膜炎で入院されたのは、東京帝国大学医科大学付属病院の施療科でした。施療科とは入院費、薬代が無料の代わりに、医学生の実習の実験台になるというものだったそうです。
また御論文中の入沢達吉博士とは、後に同病院院長、宮内省侍医頭(大正天皇の主治医)にまで上り詰めた当時の医学会の重鎮です。
上の写真は同医科大学(現東大本郷キャンパス)、左写真の内科病棟はその奥、東側の一画にありました。


当時の最先端医療に見放されながらも、菜食によって不治の病「結核」を克服された明主様は、明治35年(1902)無事20歳の成人を迎えられました。しかし生来の虚弱体質は相変らずで、※徴兵検査の時は、丙種合格、担当官から「おまえはクズの身体だ。」と言われたそうです。



※当時の日本では徴兵令によって、満20歳を迎えた全ての男子に兵隊になる為の検査を受ける義務がありました。健康状態の良い方から、甲・乙・丙・丁とランクがつけられ、甲・乙の男子の中で抽選に当たった人は、義務として3年間現役か補充の兵隊になりました。丁種とは心身に障害を持つ人(兵役免除)、明主様の丙種とは体格、健康が劣り、使えない人と言う意味で、日本の全ての青年男子を体だけで階級付けする夜の時代でした。
 しかし時は移って今、極東地域において兵役制度がない国は唯一日本だけである事には感謝いたしましょう。。。?


超〜仮に明主様が当時健康で、且つ抽選に当たって明治38年まで3年間の兵役に従事されていたらいかに。。。。。。明治37年〜38年にかけておこった世界史的な出来事と言えば、、、そう日露戦争です。
 神様の綿密なるプログラムの中には明主様の兵役、ましてや日露戦争従軍などはありません!
でも同年代の男子は、近所の長昌寺で遊んでいたガキ大将も、浅草小時代に羨ましく見えた健康児童も、ひょっとすると兵隊さんになって出征して行ったのかもしれませんね。。。


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