昭和6年6月15日その後


歌会も 終りて出発の準備なし 一行又も下山の途につく


2時間ほど歌会を楽しまれたご一行は、再訪を期し日本寺をあとにされました。今度は長い石段を下ります。昼間の仁王門、心字池などを見ながら賑やかに帰途につかれた事でしょう。


そして再び保田駅に戻られ、東京方面ではなく向こうっ側のホームから汽車に乗られたと思われます。目的地は那古観音、船形観音のある那古船形駅です。駅名がまんまです!
内房線で4つ目、20分ほど汽車に揺られると那古船形駅です。どちらを先に参られたかはわかりませんが、小生は那古観音を今回の旅の終着とすべく、まず船形観音から!



数丈の 崕(がけ)の上危く赤塗りの 御堂荘厳に建ちて在りけり

そそり立つ 崕上危ふく観音の 御堂の建てり海ながめよき


船形観音は通称「崖ノ観音」と言われるように、崖に建っています。と言うよりもこちらの磨崖十一面観音さまは、背後の崖の岩肌に浮き彫りになっておられ、石の厨子とそれを囲む形で舞台造の観音堂が建てられています。


石段を登って観音堂へ!日本寺の時を考えればら〜くらく!
こちらは養老元年(717)に僧・行基によって開かれたそうです。お堂は震災後の大正15年再建という事ですので、ご一行はまだ新かったこのお堂に参られた事でしょう。もっとも基礎部分やお堂と舞台を支える柱は強固なコンクリート造りになっているので、大規模な改修が行われているでしょうね。だから安心です!?  



船形の 崕の観音堂内に 入れば絶佳の景色眼に入る

景勝の 位置を占めたる船形の 観音堂の眺め珍らし


観音さまにご参拝を終え、振り返って舞台に立てばこんな感じ。。。
ど〜んより曇っています。晴れていれば、遠く大島、伊豆半島を望むことが出来るそうです!
ご一行はここからの景色を堪能された事でしょう。
小生の場合は日頃のおこないかなぁ。。。でも降らないだけでも感謝せねば!などと思いつつ、足早に次なる地へ!


那古寺・通称那古観音は養老5年(721)僧・行基によって開山され、案内図の「古屋敷」の辺りに伽藍が造られました。その後も源頼朝、足利尊氏、八犬伝の里見氏など武家の信仰を集めて隆盛を極めました。しかし元禄の大地震で堂塔が全壊してしまい現在の場所に再建されたそうです。
こちらのお寺は明主様ご一行が訪れた当時と殆ど変わってないはずです! お〜ワクワク!!!


那古観音は坂東三十三観音霊場の結願寺!つまり終着地の三十三番札所になります。そしてその長い巡礼の途中、十三番札所が金龍山・浅草寺になります。また、安房三十四観音巡礼では一番札所になっています。
小生も今回の旅の終着地とする事にしました。


那古観音へ 賽(さい)し終りて船形の 観音さして三三五五々行く
那古観音へ 賽したどりし船形の 観音堂の丹色美きかも
                                   
安房歌紀行


最近になってこの二首の御歌に気づきました。那古観音に賽した後、船形観音へ行くのが正しい順序なんですね!
まあ、かつお式はこの程度なんでございます。 お粗末!m(__)m  「順序を過る勿れ」「神は順序なり」

本坊前の駐車場から、カーブのあるゆるい坂を上ると、仁王門があります。こちらは昭和に入ってからの建立ですので明主様ご一行が訪れた時にあったかは微妙です。
案内図にも有った様にここから細長く伽藍が並びます。そして全ての建物が写真左、海の方を向いて建てられています。


仁王門をぬけるとまず阿弥陀堂があります。この中には平安時代後期に造られた木造阿弥陀如来坐像がお祀りされております。県の有形文化財(以後県文)に指定されています。


その隣に並ぶ多宝塔。宝暦11年(1761)建立で、こちらも県文指定されています。造りも姿もよく、関東には珍しい多宝塔だけに明主様もなにか感想をもらされたかなぁ。。。などと思ってしまいます。


そしてお待ちかねだった観音堂(本堂)だったのですが、2008年3月まで修復工事の為、堂全体がスッポリと金属プレートで覆われ、こんな写真しか撮れませんでした。。。まあ重厚な梁や基礎の部分など普段見れない所が見れて、それなりに楽しかったんですが、やはり偲びきれず。。。(涙)
仕方ないので説明だけ。観音堂は宝暦8年(1758)建立で県文に指定されており、内陣中央の厨子はそうと立派なようで、堂附きで県文です。ご本尊の木造千手観音立像は市文、外陣安置の銅製千手観音立像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。やっぱ超残念だ〜!


苦肉の策で、ボロッボロの掲示板ポスターはいかがでしょうか!もうヤケだな。江戸時代まではこの高台のすぐ下近くまで海がせまっていたそうですが、今は民家が建ち並んでいます。晴れた日に裏の山に登ればその眺望は格別とか!
でも今日はど〜んより!つーかもう雨降りそうジャン!やっぱ日頃のおこないかなぁ。。。って事で小生は急ぎ帰途につきました。


恵まれし 旅にてありき快晴の 空風薫る此二日なりしも
                              安房歌紀


明主様ご一行はつゆの時期にありながら、当然のように天候にも恵まれてご参拝をされましたが、やはりご一行も駆け足でのご参拝だったと思われます。
と言うのも明主様はこれから東京に戻り、もう一仕事しなければならなかったからです。本当にご多忙と言うか、タフです!
しかしそこでも不思議な事が。。。


「それからいよいよ帰りの汽車に乗り、暮れかかる頃両国駅についた。かねて約のあった本所緑町明石某という家に祭典を行うべく私は立ち寄ったのである。これは誰も気づかないもので、ただ私だけが驚喜しただけで、今もって秘中の秘としているが、これらもいずれ時期が来れば発表するつもりである。」
年代不詳


明主様が驚喜されるほどの不思議な出来事のあった、明石家の祭典から松風荘へ戻ってみると今度は。。。


「麹町に住んでいた信者の一人が瓦のかけらを持ってきた。よくみると菊の御紋章入りの瓦で、御紋章だけは完全であるが、他はほとんどかけている。その時ハッと思った事は、昔からの諺(ことわざ)に、玉砕瓦全(ぎょくさいがぜん)という言葉がある。それは今日のごとき運命となられた天皇に関する神示であるとしか思われないのである。」
年代不詳


当時はこの暗示の事を口に出来る時代ではなかったので、この事は戦後まで明主様の胸の中だけに秘められる事になります。
こうして明主様の、長く、濃く、不思議な6月15日は漸く暮れました。しかしこの後の3日間にも、不思議な暗示めいた出来事が続き、天啓の意味する事に確信を深めると共に、自らの使命への自覚をも深められるのでした。


「その翌16日、午前10時頃当時私は大森八景園にいたが、その隣町大井町に小池某という下駄職人があった。--中略--「今朝がた大変な夢を見ました。その夢というのは、私の友達山口某というのが往来で穴を掘っていながら「小池さん、世の中はつまらないものだよ、結局自分で穴を掘って、自分が入るんだよ」と言って淋しい顔をしていた。しかも山口の顔は、お釈迦様の通りである」というので、私は「ははあ、仏滅の暗示だな」と思った。彼いわく「この御屋敷の真中に小さな池がある。その池へ誰かが石を投げた。すると池の水は波紋を描きはじめ、段々大きくなって、ついに世界大となり、その渦の中へ巻き込まれて滅ぶ者は数知れずであった。すると暫くしてその渦巻がすむと、辺りは非常に淋しくなり、所々に観音様の像が立っている」と言うのである。--中略--いわく「否、それが自分に大関係がある。というのは最初池に投じた一石で、それを自分がやらなければならないことに決っている。ところが、それをやると自分の運命はつきるのだ」と言って彼は一種の恐怖感に襲われているようであるから、私はしかるべく慰めて、ともかく帰らしたのである。
 それからが神秘極まることが起った。というのは、その日の夕方、妻君から電話が掛って「小池が変だからすぐ来て貰いたい」というので、私は直ちに彼の家へ赴(おもむ)いたところ、彼はいよいよ変だ。彼は「大先生、いよいよ私は世界のピントを合わせなければ世界は大変なことになる。私は世界のピントを合わせるために生れて来たんだ」というので、私も何かしら神秘の謎を見せられたような気がしはじめた。私もいつか厳粛な気持になって来た。--中略--しかし軽はずみなことをしてはいけない」と言って帰宅した。その翌朝彼の妻女から電話がかかり、「今朝早く小池は鈴ケ森の海へはまって死んだ」というので、何もかもすっかり分ったような気がした。実に神秘極まる事件というべきだ。
 越えて翌々日18日、当時私が昵懇(じっこん)にしていた、その頃相当有名であった森
(某)という彫刻師が訪ねて来た。彼は「自分は今非常に尊い木像をつくりたいが、自分ごときが、そんな尊いお姿をつくることはどうであろうかと迷い御意見をききたい」と言うのである。私は「一体そんな御尊像とはどのようなお方か」ときくと、「それは天照大神」と言う。私は「非常に結構だ、ぜひつくりなさい」といったところ、--中略--最初から約半年くらいで、等身大の尊像が見事に出来上ったのである。彼は当時大本教信者であったから、その御像を大本教へ寄付したのである。それから間もなく大本教が致命的大法難を受けたのであるから何か関係があるように思われた。
 また話は違うが、こういうことがあった。当時大本教の和田堀にあった東京別院というところに、等身大の陶器製の観世音菩薩があったが、どうしたはずみか、首が折れたのである。私は変だと思ったところ、それから間もなく法難が起ったのであった。
 前述のごとき小池の夢や、彼の行動を判断してみると彼小池のピントを合わせた時、すなわち黎明と同時であるから昼に転換したことの暗示であることに間違いはない。
 また右の木像尊像も不思議であり、日本寺のことといい、明石とは、証しであるから、その時の種々の出来事と符節が合い、考えさせられるものがある。以上によってみても昭和6年6月15日こそ、全く夜昼転換の節であることが窺(うかが)われるのである。」
年代不詳



こうして明主様は6月15日の意味を結論付けると共に、夜昼転換について公表されました。


話はまた15日に戻りますが、乾坤山・日本寺の山頂に登って、東天に向かい祝詞を奏上すると共に神秘なある事が行われて、夜昼転換を感得されましたが、明主様のご論文の中には。。。


「面白い事には、清澄山は右の乾坤山の東方指呼(しこ)の内にあり、全く姉妹山である。」


との記述もあり、さらに夜昼転換に関る日蓮上人のご偉業についても触れられています。そして地図上で確認してみると、清澄山は乾坤山(鋸山)のちょうど真東にある事がわかります。
という事で!みあとしのびではありませんが、清澄山にある日蓮宗の大本山・清澄寺にもご参拝させて頂きました。興味のある方は、乾坤山からの写真をクリックしてみて下さい。清澄山まで、ひとっ飛びです!


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