乾坤山日本寺 (鋸山)

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昭和元年神懸りを通して自らの重大な使命を自覚された明主様は、昭和3年神業に専念されることとなりました。そしてその3年後の昭和6年5月のなかば頃、またも神の啓示に接することとなります。


「右の昭和6年6月15日、私にその前日神の啓示があった。それは房州鋸山に在る有名な日本寺へ参詣に行けというのである。日時は一晩泊り随行者は30人以上というのである。早速その準備に取掛った。幸い信徒の中に当時日本寺の住職田中常説師という相当有名な禅僧に交情がある者で、万事その者に交渉して貰った。」
年代不詳


15日日本寺行きの件集まりし人に清水は相談なしける
                       昭和6年6月10日 日記


今回は日本寺ご住職とご昵懇(じっこん)の清水清太郎先生が猿田彦のお役回りとなりました。


昭和6年6月14日明主様、二代様、一部随行者ご一行?は松風荘を出られると、おそらくここ大森駅に来られ、電車で両国方面へ向かわれたと思われます。しかし当時はまだ総武線がアキバにドッキングしてませんので、各種交通機関乗り継ぎで、時間をかけて集合場所の両国駅に行かれた事でしょう。 
写真は大正時代の大森駅舎、駅パンフより。


おもふどち 三十余りの人々と 房州に向け両国駅たつ
                             

当時の両国駅は房総方面、埼玉方面へ向うターミナル駅でした。この駅舎は昭和4年に建てられたものですので、この駅のコンコースにご一行は集合され午後4時の汽車で出発されたものと思われます。ちなみに現在旧駅コンコースには和風居酒屋チェーンなどが入っております。
チョッと前まではおいしい地ビールを飲ませるビアホールで、雰囲気も良かったんだけどなぁ。。。





初夏の 青田に田人忙しき 中をわが汽車ひたに走りつ
遠近に ゴーガンの絵を見るが如 枇杷(びわ)の畑の陽にかがよえる

小林の 夫人や高久女史たちと 歓談倦(う)まず保田駅に着く
                                


車内のご一行は明主様の洒脱でユーモアたっぷりなお話で笑わされ、あっという間の目的地保田駅到着だったようです。そんな中ある随行者は隣の席の人に話しかけました。
「今度の鋸山行きをどんなふうに考えていますか?」「さあ、先生のことですから、何か重要な意味が隠されているのじゃないですか」
そんな会話をされながら、約1ヶ月前のお言葉を思い返していました。
「鋸山の山頂に立つのが、6月15日だという事に大切な意義がある。」
。。。そして「どうもいつもの参拝旅行とは違うようだ。」と考えるのでした。。。


月のなき 闇路を衝いて自動車は 麓(ふもと)の茶屋へ安く着きけり
                                

おそらくは清水先生のご配慮でしょうか、駅からはハイヤーに分乗して楽チン山麓の茶屋まで行かれました。
そしてこの「無字門」付近の茶屋に着かれた事と思われます。そこで提灯(ちょうちん)を借り一路日本寺参道へと向われました。


畏(かしこ)くも 光明皇后の勅(みことのり)に 行基の開きし日の本の寺


乾坤山(けんこんざん)・日本寺は今から約1300年前、聖武天皇の詔勅と、光明皇后のおことば、皇后の感得した東方薬師如来を祀る「日の本の寺」として、神亀3年(725)6月8日、高僧・行基により開かれた関東最古の勅願寺です。その時天皇からは御親書と黄金五千貫を、皇后からは手ずから刺しゅうした三十三観音の軸物、御戸帳料稜錦十匹を賜ったと伝えられています。かつては広大な境内に七堂、十二院、百坊を完備した大伽藍がありましたが、その後衰退、復興を繰り返し江戸時代にはご本尊の行基作・薬師瑠璃光如来は日本三薬師の随一として尊敬を集め、三百万人講の名をもって山全体の寺域に東海千五百羅漢彫刻の大工事が行われました。しかし明治維新後は全山が荒廃し廃仏毀釈や迷信、俗信によって多くの仏像が破壊されました。


提灯の かそけき灯光(ひかり)にとぼとぼと 石の階段登りゆくかな
                               


参道の山道を少しゆくと、日本で2番目に長いという石段の参道に出ます。現在は御影石で2639段あるそうですが、当時の石段はもっとデコボコで登るのも尚一層大変だった事でしょう。


鋸山 麓すぐればあくがれの 日本寺の門いかめしくたてる
                                       

深い木立のなかを提灯の灯りだけをたよりに長い参道を登り詰め、ようやく日本寺の明かりが見え始める頃、この仁王門が暗闇の中から現れます。さぞやいかめしく見えたことでしょう。この門は数少ない当時からある建物です。左右にいらっしゃる仁王像は慈覚大師作という事で力強く迫力も有、目がギラギラ光ります。門の扁額は李呵O書とあり、明治35年6月吉日と書いてありました。


鋸山 中腹にある日本寺に 入れば時計は十時半打つ
                  

天津日の 神にゆかりのありぬらむ 名もひむがしの日の本の寺

藁葺(わらぶき)の いとも廉末(そまつ)な風呂に入り 汗を流せば甦りける
禅寺の 夜は深々と更けわたり 話の興は果つべくもなし
流石にも 疲れたる人次々に 臥床(ふしど)に入れば吾も寝ねけり

清水氏や 服部氏の骨折に 特別の室に安く寝ねしも


ご一行は漸く日本寺の本堂に到着されました。明主様は、露天風呂同様の簡素なわら葺きの浴場で汗を流したあと、遅い夕食をとり、食後田中常説住職としばし歓談、寝床に入ったのは午前零時ごろでした。そして。。。


真夜中の 三時に眼(まなこ)覚めければ 華胥(かしょ)の国人次々起せり

足弱き 人等居残り山登る 一行二十五人寺出づ
足曳(あしびき)の 山路の闇をかきわけて 提灯の灯をたよりに登りぬ  
ご一行が登られた石段はこんな感じだったのでしょうか。。。
足曳きの 闇の山路を勇ましく 提灯の灯を頼りに登るも
山頂は 十州一覧台とかや 実にもその名にふさわしかりぬ

漸くに 乾坤山の巓(いただき)に 登ればほのぼの者の見え初む

朝霧の はれゆくまゝに遠近の 海山見えて清しかりける


雲いづる 天津日光(ひかげ)を拝(おろが)みて 一行謹しみ祝詞奏しぬ

山の端(は)を 昇る旭日の荘厳の 光拝みぬ乾坤山の上

連山は 重畳(ちょうじょう)として濃く淡く 朝霧に浮く眺め美はし

東の山の端の影茜(あかね)さし 棚引く雲の黄金の色かな


昭和6年6月(むとしむつき)15の此佳(よ)き日 いと窃(ひそ)やかに岩戸開けぬ


「昭和6年6月15日黎明を期し、私は30数人の供を従え、安房の乾坤山日本寺の山頂に登って、東天に向かい祝詞を奏上すると共に神秘なある事が行われた。それはまだ発表する事は出来ないが、この行事こそ夜が昼になる境目としての経綸であった。」
昭和27年11月12日


長い石段を登ること約1時間、ご一行が到着された時山頂はまだ一面の白い霧の中にありました。静けさの中朝霧はゆっくりと晴れ、房総の山並みごしに遥か清澄山の彼方から、一条の光が貫いたかと思うと、黎明を破って大日輪がゆっくりと昇りはじめます。一同明主様の御先達に従い「天津祝詞」奏上。荘厳神秘な時の中で、ある重要な神事が行われ天啓が授けられましたが、それに気付く者はただ明主様おひとりでありました。そして明主様は「ある神秘なことが行われた。」とのみ、つぶやかれ何事か胸に深く秘めるご様子でありました。随行者はただ、例え様の無い感動と、この場に許された喜びだけを胸に山頂を後にしました。


初めて宗教らしいページになってきたなぁ!(自画自賛) 山頂の碑の周りはとても綺麗に整備されていて、さすが世界救世教!?金持ってんなあ〜!って感じです。(もちイイ意味で!)写真中央奥が天啓聖跡碑です。右の方が東の方角になります。明主様が重要な神事を感得されたその場所は、右の木の横、碑文のある場所ではないかと思います。この山頂は比較的観光客が訪れることも少なく、ゆっくりとその時に思いをはせる事ができました。(別の山頂には色々観光スポットがある故)小生も謹んで「天津祝詞」奏上。
左側にある神祠(しんし)は浅間神社です。浅間神社と言えば富士山にお鎮まりになられる木之花咲爺姫命(このはなさくやひめのみこと)様をお祀りしているのでしょう。(またお会いできた事に感謝)晴天なら背後に富士山が見えるはずです。(本日は曇天なり)ここに浅間神社がある事自体に、富士山と鋸山との神秘な関係が感じられます。


明主様があの日ここで感得された事については、ご存知の通り、後に差し支えない部分から時に乗じて少しづつ、お教え頂いておりますのであえて小生ごときが。。。
現界の1日に昼夜明暗が在る如く、霊界の1日、1年10年100年・・・にも昼夜明暗が在り、そのリズムの中でも何千何万年に1度の大きな夜昼転換があの時、ある神事と共に霊界の最も奥で始まり、「霊主体従の法則」のもとにその現象はやがては、この現界にも移写し様々な変化をもたらして地上天国へと大転換を遂げる。その黎明の第一歩の時をここで感得されました。 要約しすぎですがぁ。。。ただ言える事はこの後、造る方の作業に取り掛かられたという事です。


碑文の前に立って東方を眺めるとこんな感じ。木々の成長に月日を感じてしまいます。しかしもチョッとカットして頂けると信者としては。。。いえ、乾坤山日本寺様のご好意にはただ大感謝あるのみです!
でもチョイト離れた場所からはこの通り!視界を遮るものは有りません。清澄山ってどれかなぁ。。。本日の視程のまだ先にあるかもしれません。


昇る陽に あたり全く明けぬれば 一行下山の途にぞつきけり


百体の 石造観音釈尊や 達磨の像に諸菩薩在すも
山間の 岩窟(いわや)の中に石造の 羅漢の像の数多(あまた)立ち居り

心なき 人の多きも立ち並ぶ 羅漢の半数首の無きかな









明治維新後には、廃仏毀釈や迷信、俗信から多くの石造の首が落とされました。 現在そのお首のお繋ぎ、修復の地道な作業が続けられています。
10年程前には石仏の盗難が相次ぎました。アジアの某C国にて、日本寺と刻まれた石造多数が発見されましたが、その返還交渉は頓挫したままです。


あたりもすっかり明るくなり下山の途につかれたご一行の前に、異様な姿の石造群が表れました。登る時は暗くて判然としなかったそれは、首のない石仏の群像でありました。これを目にされた明主様は、先の山頂での秘事、また日本寺が仏界の型であるとするならば、今や仏界において重大な変化が起こりつつある事を、深く覚られたのでした。


仏界の変化と言う事に関すれば、その後の日本寺の事についても書かなければなりませんね。(また長いページになってしまったぁ!!!)



「全く日本における仏界の型である。ところが不思議なことには昭和18〔14〕年11月寺から火を発し灰燼(かいじん)に帰したのである。当時の新聞記事によれば再建は絶対不可能であるという。この時私はハッと思ったことは言うまでもなく、仏滅の型でなくて何であろうかという事である。」
年代不詳


国立国会図書館 所蔵
昭和14年(1939)11月27日の読売新聞
名刹・日本寺焼く 烈風中に房州鋸山の猛火
26日午後4時ごろ房州の名山鋸山の名刹曹洞宗乾坤山日本寺の庫禅風呂場付近から発火、火は折からの烈風に煽られて本堂、観音堂、大黒堂は一瞬の間に猛火に包まれ更に付近の山林7、8町歩を焼き呑海楼及び仁王門を残して全焼、同8時鎮火した。--中略--寺宝建物等の被害約10万円と見られている、住職田中常説師夫妻は目下旅行不在中で、留守を預かっていた寺男のみで原因は目下館山署で調査中、なおこの火災で頼朝公手植えのソテツ名樹沙羅双樹も焼けた。 (※後に登山者による失火と判明)


上記のように日本寺は火事となり、その堂宇のほ殆どと、貴重な国宝、仏像の悉くを失いました。従って現在あるのも仮本堂であり、その上手では平成37年を目標に薬師堂等の再建、平成の大復興作業中であります。しかし山全体ともなれば、100年後。。。いや、はたしてどうなっているだろうか。。。?
と受付のおじさんが言ってました。

※日本寺が焼けた日は、六曜の仏滅に違いない!と勝手に思って調べてみたら。。。先勝でした。ガクッ。。。
 ちなみに明主様の御降誕日は、六曜の大安に違いない!と勝手に思って調べてみたら。。。大安でした!やっぱり〜!



山寺の 田舎料理の朝飯は 都の珍味佳肴(かこう)に勝れり

本堂を 背景にして一行は 紀念の為と写真撮りけり


この仮本堂なんですが、どうやら旧本堂の礎石の上に建てられているようです。かなり古い本に載っていた旧本堂の写真右手に、新聞記事にも載っている頼朝公のソテツが写っていました、現在のこの写真右手同じ場所にもそのソテツが立派にあります。また、仮本堂の石段には被熱による火弾けのようなものもみられます。当日2カットだけ撮られた写真の内の1枚、お歌にもあったご一行全員での記念写真は、この仮本堂のある場所で撮られたようです。 



この火事によって壊滅的状態となった日本寺ですが、そんな中でも奇跡的に焼け残り、明主様ご来訪当時を偲ばせるものが幾つか有りますので、以下ご紹介いたします。


まずはこの梵鐘!仮本堂の前にあります。初め栃木県の天宝寺にあったものが、後に鎌倉五山のひとつ浄妙寺鐘となり、その後江戸湾を渡って日本寺鐘となりました。現在は国指定重要文化財となっております!
こちらは先にもご紹介しました仁王門です。しかし当時の仁王門屋根はわら葺で、山寺の山門としては尚一層風格漂うものであったはずです。



十一面 観音ませり古きころ 慈覚大師の刻みしものとう

そしてこちらが仁王門のすぐ上手にある観音堂です。
安房三十四観音霊場の八番札所となっており十一面千手観世音菩薩さまがいらっしゃいます。無字門からここまでは巡礼の方々の為に無料開放されています。この先からは拝観料\600をお納めして進めます。(安い!)
これが火事で焼けたはずの源頼朝公お手植えのソテツです。樹齢約800年とも言われています。焼かれながらも、その生命力で回復したんでしょうねぇ。



それから今回日本寺に来るにあたって是非確認したかった事としては、御論文、御歌中にも度々登場する沙羅双樹が残っているか!だったのですが。。。今回ウッカリ忘れてしまいました。。。すいません!再訪が許されればご報告いたします。ペコリッ! <(_ _)>
07.6/13 


これら焼け残った物をみていくと、全ての建物、宝物が本堂より下手海寄りに集中している事がわかります。当日、本堂近くで出火した火は折からの強い海風にあおられて、山の上へ上へと煙硝していった様子がはっきりとわかります。(本当に勿体無い、惜しいなぁ。仏滅の型かぁ。。。)
あっそ〜だ!もうひとつ重要な所を、ワザト忘れてました!(笑) こちらも本堂の下、石段の途中にある呑海楼(どんかいろう)です!新聞記事にも載ってましたよね。こちらのお庭で明主様はご夫婦で記念写真を撮られ、ご一行はそのお庭で歌会を催されたそうです!


こちらが呑海楼お庭の入り口です。この建物とお庭は江戸時代末期、江戸の商人・大口屋平兵衛という方が寄進なされたもので、その眺望もさることながら、珍しい松や、奇岩怪石をもって趣のある庭園が造られています。土日には時々お茶処として開放されているようです。小生はたまたま管理されている方がいらっしゃたので、お願いしてお庭だけ拝見させて頂きました。  (^_^)v


眺めよき 位置を撰びて建てられし 呑海楼と其庭に遊べり


これが呑海楼です。こちらもたぶんわら葺だったと思われます。昔話に出てきそうな正に山寺の仏閣にふさわしい佇まいだった事でしょう。
この建物の前に立ち、ご夫婦で写真を撮られました。 
そして。。。



呑海楼の 芝生の庭に莚(むしろ)敷き 即席歌会を開きてたのしむ

ここばかり 天国なるかな歌人の 青草の上にみな想をねる

山間の 青草の上に横たわり 鳥の啼く音(ね)を夢とききにつ


皆様この芝生の上に腰をおろされ2時間程歌会をされました。
30名程の方が楽しそうに、歌に打ち興ずる姿が思い浮かびます。


歌詠まむ 事さえいつか忘れけり 海の眺めに心奪はれ

呑海楼の 庭より見れば景色佳(よ)き 安房の島山指呼の中かな

箱庭の 景色見る如海の面(も)の 島かげ点々片舟(へんしゅう)の見ゆ


眺めよき 海辺選びて建てられし 呑海楼の庭に飽かなき

晴れ渡る み空の下に心ゆく ばかり安居す山間の庭


珍らしき 亀石や奇巌怪石の 間に老松わだかまる庭


歌会も 終りて出発の準備なし 一行又も下山の途につく


このページは、明主様にご案内頂いたような気分になりたくて、調子に乗って長いページになってしまいました。すいません!でも何千何万年に一度のクライマックスですからぁ。。。ご容赦あれ!だからまだ続きます。。。
昭和6年の日本寺参詣の折には、清水清太郎先生が中心的猿田彦のお役回りをされたかと思いますが、昭和40年の「天啓聖跡碑」建立にあたり、その場所の確認をして下さったのも清水先生であります。最後まで猿田彦のお役目を貫徹して頂きましたお陰で、現在、未来の明主様を信仰する者達すべてが、そこへ集う事ができます。先生に感謝!そのプロジェクトの実施をして下さった世界救世教に感謝!そして深いご理解のもとご協力下された藤井徳禅ご住職並びに乾坤山日本寺様には大感謝であります!





日本最大の大仏様
百尺観音様
地獄のぞき


もしこのHPが日本寺ご紹介のHPであったなら、大変偏った内容である事は否めません。何故なら上記のような見所満載のお寺だからであります。たった\600の拝観料で1日中楽しめ、クタクタになる事ができます(笑)。足のお弱い方には山頂までのロープウェイや、自動車道などもあり、いろんな高さからの入場ができるよう配慮されております。皆さまも是非一度訪れてみてはいかがでしょうか。



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ま〜だ続くよ〜ぉ! 実はこの日の明主様ご一行はそのままご帰宅されたわけではなく、他のお寺にもご参拝されています。
そちらについては「日本寺その後」でどうぞ!


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