御生誕地

「私の生まれたのは改正前の東京市浅草区橋場町であった。この場所について説明してみるとこうである。日本という国は言うまでもなく地球の極東に当り、かつ日本の東の都は東京であり、東京の東は浅草であり、浅草の東は前記の橋場町であるが、橋場から東は隅田川になっているから、全くここは東のドン仕舞で、世界全体からみても最東端である。」
東方の光 昭和27年11月12日

※明主様御論文は「黒」で表記させて頂きます。


明主様(岡田茂吉師)が御生れになったのは、明治15年(1882)12月23日のことでした。この日は冬至の翌日にあたり、この日より陽のさす時間が長くなり始めるという、まさに日に向かう第1歩のお日柄に御生れになりました。

かつおごときが偉っそーに説明しちゃいましたぁ〜!
でも全部受け売りですのでご容赦を。。。m(__)m
「今も微かに覚えているが、親父は古道具屋で店が三畳位、居間が四畳半位の二間きりであった。そこから十町位ある浅草公園に毎晩夜店を出しに行ったものである。私が物心ついてから父からよく聞いた話であるが、今夜いくらか儲けないと、明日の釜の蓋が開かないというので、雨の降らない限り、小さい荷車へ僅かばかりのガラクタを積んで母は私を背負い、車の後押しをし乍(ながら)行ったという事である。そんな訳で赤貧洗ふが如く、母は今でいう栄養失調という訳で、乳がろくろく出ないので近所の蓮窓寺という寺の妻君に乳貰ひに行ったものである。」  
昭和24年12月30日
枠のある写真はClickで拡大します。


この地に2間きりの借家があり、貧しく親子5人でお住まいになってたんですねぇ。。。
明主様は、父・岡田喜三郎、母・登里、姉・志づ、兄・武次郎の5人家族の末っ子として御生れになりました。
そして御生誕地ですからぁ。。。

教祖産湯の井戸、も残っております!!!
でも端がかけています (涙)
しかし何時来てもどなたかの手で掃き清められており、
気持ちイイ〜!ありがた〜い!小生もチッチャな葉っぱをポイッと!
幼い明主様を背負い、車の後押しをしてガラガラと、この道を浅草公園までいったのでしょうねぇ。(小生の足にて約25分)
蓮窓寺まで乳貰ひに行ったんだろうなぁ。。。(小生の足で約5分)
道を隔ててマンションがあり、その裏はもう、世界の東のすみだ 川です。
遠くの薄ピンク色したのが対岸の、首都高速6号向島線です。
門を出て左へ行くと橋場不動尊。右へ行くと蓮窓寺です。 

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この地には明主様が7歳位までいらっしゃいました。
腺病質のちっちゃな体で、絣のきもの着たもっちゃんが、今にも出て来そうですね。

台東区橋場2丁目2番



はみだし


これは嘉永六年(1853)の江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」です。測量図ではなく絵図なので、距離、方位、大きさ、形状等かなりアバウトな図ですが位置関係は読み取れます。そこで御生誕地をちょっと探してみる事にしました。
ABは現存する長昌寺、蓮窓寺(次ページ参)、Cも現存する福寿院で、どの寺も今より広い寺域を有していますが、位置関係は変わっていないようです。またDは現存しない総泉寺ですが、ここにあった平賀源内の墓は今も旧寺域内にあり、これらから推測すると御生誕地はどうやら@の浅茅ヶ原(あさじがはら)か、隣接する町家辺りにあったようです。(橋場不動尊は小さくて省略?)浅茅ヶ原も調べてみると、ここは湿地帯で水鳥の多くすむ荒涼たる原野だったそうです。私的、信者さん的、ひいき目解釈?によると、おそらく太古の昔からこの頃まで、田畑にも町家にも適さぬ清浄なる地として残されていた、とっておきの場所だった事がわかります!(^O^) (かつお式)
こちらは昭和20年の「帝都近傍図」という戦災焼失区域を示した、信頼度が高いと言われている地図です。赤●が御生誕地で、赤が焼失区域、水色は建物疎開(事前に建物を壊しておき延焼を止める)区域です。御生誕地はギリ焼失区域内となっていますが、実はこの一画だけは損害軽微で焼け残り、延焼が止まった場所でした。
建物疎開が機能した数少ない場所とも言えますが、これ以前の明治44年(1911)吉原の大火の時も、大正12年(1923)関東大震災の時も、何故かこの一画だけは焼け残った不思議な場所と言われています。
おそらく教祖産湯の井戸も大活躍した事でしょうが、やっぱり清浄なる地なんでございます!


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