日本橋区浪花町(なにわちょう)

明治32年(1899)明主様17歳の頃、父喜三郎氏が古物商の店を開くことになり、一家で住みなれた浅草を出て日本橋浪花町、現在の富沢町へ移ることになりました。ここは今も一大商業地域の一画にありますが、当時は絶頂期の人形町が隣にあり、近くには水天宮、花街、明治座、末広亭などがあって、今よりずぅ〜と活況を呈していました。浪花町は特に、繊維品、諸雑貨の問屋が多く集まっていたようです。
そんな商業の一等地に古物商の店を開くことは、父喜三郎氏にとっては夢への第一歩、明主様にとっても、夢いっぱい、不安いっぱいの移転であったと拝察されます。


「15歳から20歳頃までは人並以上の意気地なしで、見知らぬ人に遇うのはなんらの意味もなく恐ろしい気がする。特に少し偉いような人と思うと、思うように口が利けない。又若い女の前などに出ると、顔が熱して眼がくらみ、相手の顔さえもロクロク見えず口も利けないという訳で、大いに悲観したものである。従って自分の如きは一人前の人間として社会生活を送り得るかということを随分危ぶんだのである。そんな訳であるから、その頃世間の人を見ると、自分よりみんな利口で偉いように見えて仕方がなかった。」
昭和24年8月30日


お隣人形町と言えば、当時銀座と肩を並べる繁栄期、水商売や安産祈願で大賑わいの水天宮、明治6年創業の老舗舞台の明治座、昭和45年まであった日本を代表する寄席末広亭、歌舞伎・昭和歌謡で有名な「お富さん」の舞台は玄冶店(げんやだな)など、移転先周辺を見るに付け、やはり親子そろって粋が好き!江戸っ子なんだなぁ〜と思います。
 しかしそんな別天地に居られたのはつかの間のこと、姉の志づさんが経営をはじめた貸席「静月」が大忙し!!!人手不足で父に助力を頼んできたのであります。
「貸席なんぞ女のする仕事でィ!。。。しかし可愛い娘の断っての願いとあっちゃ〜仕方あんめぇ。。。」と言ったか言わぬか。「静月」のある京橋区木挽町(銀座7丁目)へ移転し、一家で仕事を手伝うことになりました。



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