神田周辺


神田といえば学生街、古本屋街と言ったイメージですが、今回はもちろんそんなレポートをする訳ではありません。もっとも神田の本屋を明主様が利用された可能性は結構大ですけども。
小生で判る程度ですが、この辺りにも明主様にゆかりのある場所が数箇所点在しています。
写真は靖国通りと白山通りが交差する神保町の交差点です。赤信号が白山通り、車があるのが靖国通りで進行方向に靖国神社があります。
今回まずは赤信号を渡って、いえ青信号になってから渡って、白山通りを皇居方面に行きたいと思います。 



救世軍本営


「しかるにその当時私は毎月救世軍へ若干の寄付をしていたため、時々牧師が訪ねてきてはキリスト教を奨めた。牧師は「救世軍へ寄付する方は大抵クリスチャンであるが、あなたはクリスチャンでもないのにいかなる動機からであるか」ときくのである。そこで私は「救世軍は出獄者を悔い改めさせ、悪人を善人にする。従って救世軍がなかったとしたら、出獄者の誰かが私の家へ盗みに入ったかも知れない。しかるにその災難を救世軍が未然に防いでくれたとしたら、それに感謝し、その事業をたすけるべきが至当ではないか」と説明したのである。まだそのほかにもこれに似たような事は種々あったがともあれ私は善行はしたいが、神仏は信じないというのがその頃の心境であった。」
昭和22年2月5日


この様に実業家時代の明主様は無神論のカチカチだったのに、正義感が人一倍だった為と、無神論者の実業家が故の極めて合理的な理由から、毎月救世軍に寄付をされていました。
その「救世軍本営」は交差点からすぐの右手にあります。
本営がここに出来たのは大正8年ですから、丁度破産宣告を受けられ寄付どころじゃなくなった頃ですけども。。。   


救世軍とはイギリスのキリスト教プロテスタント系の団体で、伝道事業の他に当時から婦人保護、児童保護、労働問題、アルコール依存症施設、医療施設の運営など、積極的に社会慈善事業を行ってきた団体です。組織形態が軍隊式なのも特徴です。米騒動や大震災のときも支援事業をおこないました。社会正義と慈善事業に関心の高かった明主様は、これらの事業に賛同して毎月寄付されていたんですね。
二代様のご追憶によると、山室軍平中将(日本救世軍の創始者とも言える人)まで来ていたようなので、相当の寄付をされていたのでしょう。
それにしても救世軍って緯のキリスト教なのに、組織が経の軍隊式なのもユニークですね。
そして救世軍は禁酒です。。。



共立講堂


「従来刊行されている出版物宣伝以外、これからは直接耳からの宣伝も必要と思いますので、それで始めたのが、第一回の今日のこの会であります。」


白山通りをさらに皇居方面に進むと、同じく右手には共立女子学園の共立講堂があります。上記は昭和26年2月10日ここで行われた初めての講演会の原稿の冒頭部分です。この頃から世界救世(メシヤ)教本部では宣伝部が組織され、昭和28年まで全国で講演会が開催されました。ただしこの第一回の講演会では、よんどころ無い事情から予定であった明主様のご出席はかないませんでした。それでも明主様の原稿の代読の時は全員起立して拝聴したそうです。会場の熱気と一体感を伝える挿話です。
大草直好管長の挨拶に続いて、ハワイヘラルド紙・東京支局長や現役衆議院議員、元衆議院議員などが信者の立場から、御神業の重要性を訴え、講演会は大盛況の内にまくを閉じました。集まった聴衆は何と四千数百人だったそうです。 


講演会が行われた共立講堂は昭和9年竣工、戦災も免れた建物でしたが昭和31年火災となり大改修が施されているようです。千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。



錦輝館(きんきかん)


「一方神田錦町に錦輝館というのがあったが、ここは相当立派な家で、まず大名屋敷の広間の様な建物で、演説会場等に当てられていたので、畳敷で観客は座ってみたのはもちろんである。そこで初めてみた写真はやはり仏画で「浮かれ閻魔」という題で、子供向のものだがなかなかおもしろく大当りしたのである。その時の弁士は駒田好洋といってすこぶる非常と言うのが味噌でそれで売り出したものである。その後神田に新声館というのが出来たがここへも私は度々行った。」
昭和24年8月30日





明治34年頃の錦輝館。左右の写真を並べた様なデカイ造りでした。右が一階催し物会場入り口、左が二階宴会場入り口です。


御論文中特に映画の事となると筆が止まらないといった御様子の明主様。本当に映画がお好きだったんですね。そんな御論文の中に出てくる錦輝館があったのは現在の錦町3丁目、神田税務署の一画でした。明治24年に出来た寄席あり演説会あり映画上映ありの、なんでもスペースの貸席だったようです。明治30年(1897)に東京で初めて映画が上映された場所もこの錦輝館です。上映当初の頃は物珍しさにお客が殺到!2階の床が抜け落ちたという逸話も残っています。御論文に出てきた「浮かれ閻魔」が公開されたのは明治40年(1907)、丁度岡田商店を開業し、先妻の相原タカさんとご結婚された年ですねぇ。もしかしてデートにお使いになったかな?とアホな想像までしちゃいます。明主様は度々ここ錦輝館へ足を運ばれているようですが、「東方之光」誌によれば、大本教入信の直接のきっかけとなった、大本講演会を聴かれた場所も、ここ錦輝館となっています。 


おまけで錦輝館の映画東京初上映の広告!明主様はこの翌年浅草電気館で初めて映画をご覧になりました。
電気館は日本初の映画館になりました。
おまけで新声館のあった場所!今は中華料理屋になってました。
神田の町は国電で1つ目、八重洲橋停車場からは市電で6つか7つの手軽に来れる隣町でした。そしてここは日本初の文教地区?ですが、本屋の他に寄席、貸席、後に映画館が多く出来た地区なんであります。
今と学生はあまり変わらないのかなぁ?



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「経済的な打撃!精神的な打撃!家庭生活の滅壊!世の中に、私以上に不幸なものはないとさえ、身を果敢(はか)なみました。--これは、ちょうど大正九年のことでした。
その頃、大本教批判という本を新聞広告でみて買って読みました。--中略--すると、なにものにか引きつけられたのです。どの文字! どの行! どの頁! それを一々挙げることができませんが、とにかく、ぐういッ・・・と私の心を鷲掴みにして引寄せるものがありました。その後、程なく、神田に大本教の講演会があると新聞でみましたので、その演説を聞きに出かけました。--中略--その口から吐きだされる一言葉々々と聞いている瞬間・・・瞬間の重なるにつれて・・・「大本教こそ・・・」「大本教だ、俺の永い間、求めに求めあぐんでいた宗教は・・・。大本教こそ俺を救ってくれる。」と、はっきりと、胸をうつ心の声がありました。その救われると確心した刹那の心の朗かさよ。」
昭和5年11月1日 (大本教幹部の時代)



国立国会図書館 蔵
左は大正9年の読売新聞ですが、そこに「大本教の心霊学的批判」という本の広告があります。おそらくこれが明主様が買われた本ではないかと思います。票目を見ると。。。「艮(うしとら)の金神」とか、「国常立尊と称するは何者か」とか、「世界の立替大立直しと世界統一」、などの文字が見られます。「〜批判」と題する本ですが否定的意味ではなく、教えを紹介した上で心霊学的見地から研究、評価して意見を述べた本だったのかなぁ。。。というのは小生の勝手な想像ですが。ともあれこの本を二円五十銭で購入して頂いて良かった〜!これで世界が救われます!
 まあ大本の出現、明主様や他教開祖の入信なども、正に御経綸そのものなんでしょうけれども。。。何せ言霊も「おほもと」ですから! 



「私が信仰生活に入ったのは、前述のごとく、大正九年夏三十九歳の時であった。」
昭和24年12月30日


「東方之光」誌によると明主様の大本入信は大正9年の6月だったようです。(15日だったりして)そしてこのちょっと前に神田で講演会を聴いた事になりますが、場所が先程の錦輝館と言うのにはやや疑問が。。。というのは錦輝館は大正7年に火事で焼失しているからです。「錦輝館三代映画資料P」というややマニアックな業界誌によると。。。
「大正7年8月19日の午後、同館裏手の天活現像工場が火を失して錦輝館も類焼、それ以来再建されなかったとするのが正しい。」
とあります。
困ったなぁ〜。ですので錦輝館との記載は、何かの間違えではないかと思います。。。(景仰誌中の文学博士のお話が根拠かも?)
大正9年(1920)に神田で行われた大本講演会の会場は3箇所あるようです。一応以下それをご紹介。どれかヒットしてるかな?


学士会館
共立講堂の前にあります。ここで講演会が行われたのは大正9年2月、この建物は昭和3年竣工ですのでその前にあった学士会館で講演会が行われました。
この場所は明治10年初めて東京大学が創設された場所ですので、日本の大学発祥の地です。また日本野球発祥の地でもあります。 


明治大学講堂
錦輝館と御茶ノ水駅の中間くらい、本郷通り沿いにあります。大正9年1月25日、ここで東京初の大本教大講演会がおこなわれなした。
現在は明治大学リバティータワーになっています。 デカッ! 


立花亭
おっと須田町まで来ちゃいました!
と言ってもこっちの方が国電(JR)神田駅には近いですけどね。
白い工事フェンスの場所が立花亭のあった場所です。地下鉄銀座線の出口すぐ横にありました。
明治時代からの演芸ホールですので、明主様には馴染みの場所だったことでしょう。
写真左端遠くにあるのが秋葉原の電気街、そんなロケーションです。
こちらでは大正9年2月25日、出口すみ(大本二代教主)さまを御迎えして講演会がおこなわれたそうです。


これら「神田」という町のどこかで、明主様は大本講演会をお聴きになり、信仰の目を開かれました。いわば信仰の出発点となった場所です。考えてみると「神田神保町」なんてすごい名前ですね。


ぜ〜んぜん関係ありませんが、ここから目と鼻の先、歩いて1分位のところに、去年(H18)閉館した交通博物館跡があるんで、チョッと様子を見てきましょ〜う!



--忠魂碑や銅像を作りますと、霊にはどのような影響がありましょうか。--

「そういうものを拝むと、想念がいい意味でその霊の所へ届きますね。けど、これも考えもんでね。下手にやっちゃかえって悪いですよ。いま、日本にあるのなんか、むしろ建てないほうがいいような人のが多いんでね(笑声)。立派な人ならいいのですがね。あの広瀬中佐のなんかいけませんよ、神田のあんな所へ建ててね、交通妨害ですよ。(笑声)」
御光話 昭和25年4月3日


あ〜ぁ!屋外展示してあった弁慶号とか無くなっちゃってる〜!ちと寂しいなぁ。。。
いや失礼!御光話に出てきた、広瀬中佐の銅像はちょうどこの三角形の敷地の先の所に建っていました。そして交通博物館の場所には万世橋と言うりっぱな駅があって、駅前の道は一時期メインストリートでした。確かに交通妨害だったでしょうね(笑)。


広瀬中佐とは日露戦争の旅順港封鎖作戦の時、封鎖船(わざと沈める船)の指揮をとり、砲弾が飛交う中、行方不明の部下を何度も探して退避が遅れ、最終的に戦死した英雄で、部下思いの上官として「軍神」に祀られた人です。
「杉野はいずこ、杉野はいずや ♪」なんて若い人知らないでしょうね。
なんて小生もまるで時代が違いますけど。。。諸先輩方すいません、背伸びしちゃいました!

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これ交通博物館の正面。以前ここには本物のD51と0系新幹線の顔だけ展示されてました。それだけでも子供心にワクワクしたものです。
ここは戦前戦後を通じ70年もの間子供達の憧れの場所であり続けたんです。。。色々思い出すなぁ。。。(哀愁)
でももうココまで来れば隣はアキバだよなぁ。。。♪
と言いながら、今度はオタクの憧れ秋葉原の路地裏に消えてゆく、かつおでありました。。。あやすぅい〜。。。




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