銀座周辺


「景仰」(信徒、有縁者の回顧録)を拝見すると、しばしば銀座周辺の映画館やお店の名前が登場します。やっぱり明主様お気に入りの場所だったんですね。
 ただどうしても行きたかった場所は、先の「日比谷通り沿い」のページで行っちゃいましたので、今回は景仰誌などを参考に銀ブラをしてみたいと思います。
ではまず日比谷通りに近い方から!

写真は銀座4丁目の銀座和光(旧服部時計店) 昭和7年(1932)竣工



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日比谷映画劇場


この辺りは沢山の映画館が軒を並べる劇場街でした。現在は再開発によって数箇所の商業ビルに数館が集まる多スクリーン型に変わっています。
今は無き日比谷映画劇場があったのは、現在の日比谷シャンテの正面入口の場所です。「日比谷通り沿い」のページで御紹介した「日比谷大神宮」跡の一画になりますね。 
景仰誌に載るエピソードとしては、


「玉川においでの頃、明主様は日比谷映画劇場へよく行かれましたが、私もしばしばお供しました。渋谷駅で落合って、国電で行くのですが--中略--電車に乗る時も、その早いこと−−サッと乗り込んで、サッと腰をかけられます。--中略--横の客に少しずらしてもらって、そして腰かけさせて下さったものです。しかも、並んで、腰かけながら、明主様は、私の腰の浄霊をして下さっているのです。「あんたの腰は、大分浄化しているな」とおっしゃって。そういうおやさしさがありました。私もずいぶん図々しく出来ているものです。--」 [布教師]


これが当時の映画館で、昭和9年(1934)から昭和59年まで50年間現役でありました。規模的には2000席と、奥に見える日劇の半分程ですが、完全なる円形劇場はインパクトもあり人気の劇場でした。今の日比谷シャンテもこのモチーフを継承しています。



有楽座

「日比谷映画劇場」の隣にあった「有楽座」も、現在の日比谷シャンテ南側の一画にありました。
昭和10年に「劇場」としてオープンした「なまこ壁」が印象的な建物も昭和59年まで残っていましたが、やはり再開発によって姿を消しました。
この道路がなまこ壁をイメージしてるのかは定かではありませんが、「日比谷映画劇場」「有楽座」は共に、東京の映画ファンにとって強い印象と思い出を残した映画館でした。


「私は元来義太夫はあまり好きではなかったが呂昇(豊竹呂昇とよたけろしょう)のみはどうしても聴かずにはいられないのでその都度有楽座に聴きに行ったものである。実に彼女の美音といい節廻しといい何とも言えない良さで、もちろん艶物(つやもの)が得意であった。彼女ほどの名人は恐らく今後も出でないであろう。」
昭和24年8月30日
この他、筑前琵琶、長唄、講談、落語なども大変お好きだったようです。ただ上記の呂昇は昭和10年以前の有楽座かもしれませんけど。。。そしてもっと前の大正時代には明主様の結婚式の披露宴会場となった「大松閣」が、有楽座の隣の場所で、この当時は高級中華料理店になっていたようです。きっとご利用になっただろうなぁ。。?日比谷はホントゆかり深き場所です。




日劇(日本劇場)

現在の有楽町マリオン(左側)の場所にあった有名な劇場であり映画館でした。こちらへも明主様は何度も足を運ばれた事でしょう。
景仰誌に出てきたエピソードとしては、


私が日劇へお供した時のことです。--中略--私はいっぱいになった通路をガムシャラに人をどけて行ったんです。中には私にむかってガンガン怒るのがいて、私も気が短かったものですから口喧嘩を始めたのです。すると明主様が、「どうもすいません」とかわりにあやまって下さったんです。それからしばらくして、御面会にいった時、「人に迷惑をかけてはいけない、そして、どんな事があっても怒っちゃいかんよ」とおっしゃって下さり、白隠禅師の話を説いて下さいました。 [布教師]


世界を救う大業のさなか、人それぞれこの様な事まで御諭し下さっています。この御先達も気は短いが、きっと力ある方だったんでしょうね。
奉仕者は病弱でフラフラの者ばかり、布教師は喧嘩っ早い、今よりもっと個性的な集団だったのかなぁ。。。統率される明主様は大変です!そして何かあたたかい。。。
写真は昭和11年(1936)頃の日劇です。
「冷房完備、涼シイ劇場、五十銭均一」だって!


これが昭和8年(1933)竣工の「日劇」全景です。夜はライトアップされて、とても綺麗だったようです。空襲で1度燃えたそうですが復活し、戦後も芸能・映画の殿堂のような場所でした。しかし老朽化と再開発の波には勝てず、昭和56年惜しまれつつその幕を閉じました。


小生もお坊ちゃまの頃、友達と日劇の「ゴジラ祭り」に行って、リバイバル連続上映を観たのを思い出します。でかくてボロかったなぁ。。。
第1作(東宝S29)ではゴジラが「日劇」をシッポでぶっ壊すカットがあって、マニアックな観客が拍手喝采したもんであります。(地味〜な壊し方がカルト的にgoo!)
またチャップリンが亡くなった昭和52年のクリスマス、折しも「放浪紳士チャーリー」という彼のドキュメンタリー映画がロードショーされていましたが、上演中に彼の訃報が入り、スクリーンいっぱい動き回る彼を観ながら、劇場中が泣き笑いしたそうです。
いや〜「映画館」って本当にイイもんですね! さよなら・々・々。。。お2人とも亡くなりましたなぁ。。。



金春館(こんぱるかん)

外堀通り沿いの旧電通ビル(昭和9年竣工)の場所には、かつて「金春館」と言う活動写真館が在りました。ここは大正3年(1914)に銀座に初めて出来た洋画専門の活動写真館でした。実業家時代の明主様もよく来られていたようです。



「そうして当時米国の会社で主なるものとしては、パラマウント、フォックス、メトロ、ユニバーサル等で、その中で今でも忘れられないのは、ユニバーサル系統の小会社でブリュウ〔ブール〕バードというのがあった。この会杜の作品はそれまで全国を風靡していたドタバタ物とは逆に、--中略--非常に文化的でケレンがなく、真面目そのもののテーマであるから別の味があったので、私は見逃さないようにした。このブリュウバードは市内の二、三の特殊館だけで、その頃新橋の金春館(弁士は滝田天霊君)赤坂の葵館(同徳川夢声君)が担任していて、ファンを唸らしたものである。」
未発表 昭和27年執筆


明主様の映画への造詣の深さはすでにマニアックの域ですね。また景仰誌の中では、 


「その当時、新橋に金春館という映画館があったんですが、そこへ行くと、金春芸者といわれた新橋のきれいどころが、毎日大勢観に来ていたものです。ですから、親父(明主様)は、映画を観ながら髪飾りの研究をしていたのです。新しいもの、新しいものを好まれた人ですから、そういうところからも、ヒントを得て来られたんでしょう。ですから、親父の映画好きは、趣味が二割、商売が八割だと思っています。そして、よく私どもに、「ゆうべ金春館へ行って来たが、いい髪飾りをしているから、おまえたちも見に行って来なさい」などと言われたものです。それだけに、時には女の髪ばかり見ていて、案内嬢から怪しまれたこともあったようです。」 [元店員]


明主様がデザインされた髪飾り


金春館は岡田商店の前の停車場から市電ですぐの場所です、御夫婦でよく来られた事でしょうね。
ここはモガ・モボの集まる銀座の名所でしたから、明主様も完全なモボでした!(モダンボーイ)
そんな金春館ですがその後の関東大震災によって焼失、再建はありませんでした。たった10年間の営業でしたが今でも伝説の映画館として有名です。



銀座 トリコロール

劇場ばっかだったので、ちょっとコーヒーブレイク、なんてね。。。
これは銀座5丁目に昭和11年(1936)からあるコーヒーとケーキの老舗、Ginza Trikolore。
ここへもきっと来られただろうなぁ。。。
景仰誌の中では、


「明主様は、東京銀座のトリコロールという店の、シュークリームがお好きだ、と聞いてから、私はいつも、そのお店のものをお届けするようにしていました。あるとき、いつもお使いをする人の都合で、別の人が代わってお届けしたことがあります。すると明主様は、そのシュークリームをひと口召上がって、「これはいつもとは味がちがう」とおっしゃられたそうです。それはどおいうことだろうと、さっそく調べてみますと、シュークリームは同じ店のだったのですが、その使いの人が不平たらたらでお届けした、ということがわかりました。そおいう想念が、明主様にはすぐおわかりになったので、私は大変恐縮したことがありました。」  [教会長]


眼には見えませんが想念は重要なんですね。同じ物、同じ行為でも実は大きな違いが在るようです。。。小生も色々と反省です。。。
ちなみに現在当店ではシュークリームはやっていないようです。近いものではエクレア(2個¥320)が人気みたいです。全国の有名百貨店に支店があるようですので、あなたの街にもお店があるかもしれませんよ。
さて小生は甘いの苦手なんで、どーしようかなぁ。。。コーヒーは¥800くらいするし。。。入口の回転扉は敷居が高いし。。。どうせ金払うならぁ。。。7丁目いこ!


みあとしのび、じゃありません。。。  けどやっぱこれだな!ここは明治44年(1911)創業の「銀座ライオン」です。さすが老舗で、このビルも昭和9年(1934)からあり、だいぶボロいけど噴水とモザイク画が泣かせるねぇ!実は「晴月」のページの新橋の古写真に写っている「エビス・ビーア・ホール」の店が、日本初のビアホール(1899)で、このライオンの前身であり、今のサッポロビールの前身でもあるんですよ!なんてウンチクたれながらのエビスは旨い!そしてサイコロステーキが硬て〜!。。。 
でも旨かった〜!で店を出て、その斜向かいにあるのが。。。



黒田陶苑

こちらのご紹介で美術品の購入などをされていたようです。
ヒクッ! 飲みすぎた。。。
景仰誌の中では、


「昭和23年か4年か忘れましたが、東京銀座7丁目の黒田陶苑の画廊で、「色紙、短冊展」が開かれ、私も一茶の短冊を出品しましたが、その展示会場で初めて岡田さんにお会いしました。私の出した短冊は、「名月をとってくれろと泣く子かな」の句で、私は陶苑の黒田さんに、「これは私の大切にしているものだから、非売品にしてほしい」と申し出ていました。黒田さんは、これを特に床の間に飾ってくれました。
その第1日目のおひる少し前に陶苑へ行きますと、「さっきお光さんが来て、どうしてもこの一茶の短冊がほしいと言われます」という話なのです。そこで私は、「これは絶対にいけない、売ることは出来ない」と強く答えました。しかし、相手は、「ほかならぬ岡田さんだからあげてもらいたい」と言う。私は少し腹を立てて、「それでは話が違うではないか」と言い切りました。そこへ岡田さん夫妻が、中食をとってまた画廊に来られて、「でも、なんとかして譲っていただけないでしょうか」と切なるお頼みなのです。
私も弱りましたが、岡田さんは非常に執心で、「句もいい。どうしてもほしい」とおっしゃる。その岡田さんという人を見ると、どこか憂鬱(ゆううつ)な影が漂っている。そして、静かな調子で言われるんです。それでいて、執拗なところがあるんです。この憂鬱そうな影というのを少し説明すると、それは肉体の病気とか疲れとかではなく、教主として、泣く子をたくさん持っているーーその自分の心の影といったらいいでしょう。そのいろいろの苦労が、自然に表情に出ていたのではないでしょうか。衆生は、明月をとってくれろとせがんでいる。岡田さんは、そういう子どもたちの親なんだなあ・・・と、その時も私は思いました。そういうわけで、ふつうなら絶対に手放さないのですが、やはり私が岡田さんという人に、惹かれていたのでしょう。とうとう差上げることにしました。
岡田さんが一茶の短冊を見て、それをスッと選ばれたセンスにも好感がもてますが、その後、2,3年たって箱根美術館へ行った時、この短冊が特別出品されてあるのを見て、私は気をよくしました。やっぱり譲って上げてよかったと思いました。
岡田さんはなぜこの句をほしがられたのでしょうか。それは宗教家として岡田さんが、「あの月をとってくれろ」と泣いている信徒の上にすわっているのだ。ーーそういうご自分を考えていられたのではないかと思うのです。泣いてせがんでいる大衆の上にいる自分ーーそれなんだろうと思うのです。--中略--おわりに、同じ陶苑の黒田さんの世話で、私の持っていた河合玉堂さんの「五風十雨」という12枚の絵も、いまでは箱根美術館に行っています。」  [詩人・工芸家 Y氏]


明主様に憂鬱な影を見い出された方は他にあったでしょうか?これが正しいかどうかは判りませんが、とても興味深く、またこの方の洞察力と大きさに敬服する大好きなエピソードです。さすが詩人だなぁ。。。だから長文載せちゃいました!
でも救世教に怒られるかなぁ。。。  



歌舞伎座

明治22年(1889)からある歌舞伎専門の劇場で、現在はまさに歌舞伎の本拠地となっています。明主様が築地にお住いの頃には、この場所で大好きな「九代目市川団十郎」を観られたかもしれません。建物は火災や戦災によってこれが四代目になりますが、この建物は日光殿の設計者でもある吉田五十八氏の設計であります。ただ近く建て替えの話も出ているそうです。。。(寂) 


新富座

チョッと場所が飛びますが、築地の時代には、ここ新富座へも足を運ばれた事でしょう。歌舞伎座が出来るまでは、ここが歌舞伎の中心地でした。界隈には歌舞伎関係者が多く住み芝居町となっていたそうです。
今は京橋税務署になっています。向いは初代「救世軍本営」跡。 



新橋演舞場

大正14年(1925)からある劇場で、こちらでは歌舞伎の他、新劇や新喜劇など様々な演劇が上演されています。現在は日産自動車の本社と合体した建物になっています。
ちなみに明主様が来られた当時、左の首都高速は運河でした。



曽我廼家(そがのや)の五郎の劇を双富久会 演舞場にて見物なすも
双富久会八人愛善会員に 入会せしかな劇場中にて
                            
昭和4年1月15日


双富久会(そうふくかい)とは、日本橋、銀座界隈の一流商店主の親睦会ですが、この日は会員の皆さんで喜劇を観劇に行かれたようです。
昭和4年(1929)といえば大本教の神業に専念されていた頃ですが、喜劇を楽しまれつつも布教活動にも余念が無く、この劇場の中で8人もいっぺんにお導きをされました。

1、最も御浄霊力の優れた方
1、信者を沢山お導きになられた方
1、神様に対して非常な御奉仕の強い方
               
昭和29年12月11日
であられた、大本正宣伝使岡田先生はこの約1ケ月後には、東京本部・常任委員にとんとん拍子の出世をされました。
と言うより、もっとズッーと偉いお方である事を隠されていた時代故、御出世が異例なのは当然ですね!



とうとう銀座のはずれまで来ちゃいましたので、最後に明主様の「銀座」の御歌を御紹介して戻りたいと思います。



月を見る 空にうるさし電線の 黒く綾なす銀座街かな
                          
昭和6年(1931)9月1日
華やかな 夜の銀座よこの国の 農民今や飢ゑんとすなり ※
                          
昭和7年(1932)12月1日
青 赤 紫 光 光 光めまぐるしい線の交錯

帰朝移民のやうな青年が いとほこらしげだ ※

若い女の人為美が銀座の灯に 踊つてゐる

ヘリオロープの かすかな香り ダンサーらしい二三人がゆく

青い柳が景物のセンチメンタルを 調節してゐるやう

灯と音のジャズが埋めてゐる 銀座の空間を突進する

空つ風が 夜の銀座をよけて 日比谷ケ原へぶつつかるんだ

きらびやかな カフェーの外飾(がいしょく)から うける一種の悲哀
                              
昭和7年(1932)12月


銀ブラをされる明主様・二代様
昭和15年夏

 ※昭和6,7年は東北大凶作の年です。娘身売り、欠食児童が問題となっていました。
 ※帰朝移民=海外帰国者


なんだか今の新宿、渋谷、池袋あたりを詠まれているみたいです。明主様は銀座の街を楽しまれながらも、退廃的な夜の輝きの中に一種の悲哀や、矛盾を感じとられているようですね。今じゃこれに「危険」まで加わっています。
小生も今だからようやく、この御歌の意味を感じとれてきた様な気がする。。。けど酒が回ってこの風景の一部となってる事もある、かなぁ。。。 退廃的だ〜!
写真は銀座のカフェ(昭和8年)、左-銀座会館、右-クロネコ



はみだし


なぜか家に昭和15年(1940)頃(玉川時代)の銀座周辺の写真がありましたので、差し支え無いやつだけUPしてみました。下の写真をClickして下さい。
撮影者さま、スキャンうまく出来なくて、ゴメンね〜〜〜!


ようやく有楽町まで戻ってまいりました!今日は良く歩いたなぁ。。。
ガード下で一杯ひっかけてから帰ろうかなぁ。。。
いや!超〜ガマンして、お家で旨くて安全な食事を頂くことにします!
もち、ビールと一緒にねェ〜!


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