浅草尋常高等小学校・東京美術学校


浅草尋常高等小学校
明主様は9歳の時千束町に移転され、当校に転校されました。
浅草寺からは道を隔ててすぐ近くにあり、現在は浅草小学校となっています。
当時東京府下5校の1つの名門校であり、レンガ造り2階建ての立派でモダンな校舎でした。
ここへ1年特進(くり上げ)で入学したにもかかわらず、数々の優秀賞を受けておられます。
「十二、三歳頃までは、腺病質の所謂虚弱児童で、薬餌に親しみ通しであった。それでも小学校だけはどうやら終えたが、子供ながらも、他の健康児童をみると実に、羨ましかったものである。しかし不思議にも学校の成績はよく、大抵主席か二番より下らなかった。」
昭和24年12月30日



明治35年校舎


浅草小学校は浅草寺の二天門を出て、通りを渡ればすぐ。
千束町からの通学路は、かつおなら観音様をショートカットして二天門コースだけど、明主様はどうだったんでしょう。。。
東京美術学校
けっして豊かな家計ではありませんでしたが、病弱ながら優秀な息子に対する期待と、健康への配慮から、念願の東京美術学校へ入学させてもらえました。
夢と希望に燃えて若い心は躍ったに違いありません。
しかし明から暗、入学後半年もたたないうちに眼がかすみ始め、悪性の眼病を発症し、悩んだ末に退学届けを提出される事になります。
そしてさらに追い討ちをかけるように、肋膜炎にかかり、病に明け暮れる灰色の日々を送られていました。
文明開化のころ欧米崇拝が極端に強まり、日本美術はその価値を完全に失っていました。しかしフェノロサ、岡倉天心らの努力によって復興し、彼らの尽力で明治20年国立の東京美術学校が開校されました。
明主様入学当時まだ岡倉天心は校長の職にあり、歴史の授業の教鞭をとっておられました。
また明主様は実業家時代に、茨城県五浦へ先生をお訪ねになり、光琳の重要性についての認識を深められたそうです。
 東京美術学校は東京芸術大学となって、現在も上野公園内にあります。


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はみだし
法隆寺夢殿は千数百年前に建立され、御本尊・救世観音像は九百年近く、秘仏として厨子の中で白布が巻かれ人目にふれず守られてきました。明治17年フェノロサと岡倉天心は、仏罰が下ると恐れる僧たちを説得して、観音像の封印を解き、その美しさを世に伝えました。 (美術界のインディー・ジョーンズや〜ぁ!!!)
後に明主様は法隆寺夢殿にてこの救世観音様とご対面になり、
「とても何とも言えない霊気が、スーッと入ってきて、実に良い気持ちだったんです。涙が出そうになった。非常に待ってたんですね。--中略--私の方から言うと「救世(メシヤ)観音」です。」
と述べられています。 御講話 昭和27年5月5日
ちなみに救世観音立像は聖徳太子等身像と伝えられています。御丈は179.9cmでございます。


 
岡倉天心

法隆寺夢殿

救世観音

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