玉川事件前後


昭和11年(1936)7月1日、「大日本観音会」は特高警察の執拗な干渉によって解散に追い込まれてしまいました。
同 7月28日、治療部門の「大日本健康協会」にも突然「療術活動の禁止命令」が出され、こちらも自然消滅という形になってしまいます。
この事件は翌々日の新聞で以下のように報道されました。



昭和11年7月30日 夕刊 2面

インチキ療法弾圧
一口百円づつの献金を強制
観音協会長ら召喚

凡例
●=読めない文字
○=ふせ字

警視庁警務課では麹町、玉川両署と協力して数日前から麹町区麹町一の七の一大日本観音会長、大日本健康協会長岡田仁斎こと岡田茂吉(54)同協会副会長岡○真次郎(42)同宣伝部長清●仁(46)ほか数名を留置取調べている。
 この一味は本年初めごろ世田谷区玉川上野毛町二三四に大日本観音会と称するインチキ宗教の業務所を設け元大本教信者の岡田が会長となって信者を集めるとともに去る六月岡田式観音指圧療法を案出して健康協会を設立、月刊雑誌「健康」を発刊して近代医学を誹謗する一方観音教会内に指圧療法の講習会を開き講習生には免状を与へるといふ名目で一口百円の強制献金を行はしめていた。
 また医師免許がないにもかかわらず業務所内に精神病者の病室を設け看視人を置いて施療していたもので警視庁では療術行為取締規制違反で解散を命ずることとなった。



駄多羅目(でたらめ)の記事夕刊に載りてあり 余りのデマに驚きしかも
                           
昭和11年7月30日 日記


昭和11年7月30日

観音療法に弾圧 
インチキ暴露

右の記事は同30日の他社の記事です。こちらには「留置」「強制」の文字はありませんが、その他内容はほぼ同様です。(この記事によれば会員数は約500名だそうです)
 当時の厳しい弾圧もさることながら、戦後の新聞ラジオ雑誌等の誤った報道による弾圧を考えると、この記事が教団に対する初の弾圧記事になると思われます。
「社会の目・自観戦記」 「御法難」のページで御紹介


 日付  事柄 参考ページ 
 昭和11年7月1日  「大日本観音会」解散  
 昭和11年7月28日  「大日本健康協会」に療術活動の禁止命令  
 昭和11年7月30日  上記の新聞報道  
 昭和11年7月31日  警視庁の医療課長を訪ね、禁止令の解除を申し入れる  
 昭和11年8月3日  大宮支部が家宅捜索を受け、3名が検挙  大宮周辺
 昭和11年8月5〜6日  埼玉県大宮警察署に留置、大宮事件   大宮周辺
 昭和11年8月10〜11日  玉川警察署に留置、家宅捜索を受ける 第一次玉川事件  上野毛周辺
 昭和12年10月22日  「療術活動の禁止命令」解除  玉川郷(2)
 昭和15年11月28〜30日  玉川警察署に留置 第二次玉川事件  上野毛周辺
 昭和15年12月1日  廃業  上野毛周辺
 昭和15年12月24日  「一生涯、療術行為をしない」旨の誓約書と、廃業届を提出  


※以下「その他ゆかりの地」より転載


昭和15年12月31日 朝刊 3面


 破れた‘観音力’
 インチキ療術師一味検挙


国立国会図書館 所蔵
玉川署では世田谷区玉川上野毛町234療術行為業者 岡田茂吉(62)弟子 池○ひさ(52)同 木原○一郎(42)三名を数日前より医師法違反で取り調べている。岡田は四年前岡田式指圧療法を開業、患者が来ないので、以前大本教の幹部をしていた経験から信仰と療法を結びつけて宣伝、これに釣られてきた患者に白紙に「観音力」と書いたものを十円で売りつけ、更に講習会を開き一週間五十円の講習料をとり月に二、三千円の悪銭を得て雇人七人、助手二人を置き豪奢(ごうしゃ)な生活を送っていた。


相変らずのイイカゲンな取材内容と、バカにしたような稚拙な論調ですが、この当時も今と同様、怪しいインチキ宗教紛いが数多く存在したのも事実で、当時の官憲の方針とも相まって新宗教に対する記事は各社揃って同じような取り扱いでした。
 インチキ記事の内容はともかくとして、注目すべきは日付です。第二次玉川事件といえば昭和15年11月28日〜30日と思っていましたが、この新聞の日付からすると、どうやらその後も執拗な取調べは続けられていたようです。
そしてもしかすると昭和15年は取調べで暮れ、新年は取り調べで明けたのかもしれませんね。ここまでくるとただのイジメですわ!


「そんな事で医療妨害の罪に問われるとしたら、到底持続してやる事は出来ないから今日限り廃業します」と言い放ったので、今度は彼(主任刑事)の方が唖然としたようであった。それが十一月三十日である。
 ところが彼は先手を打たれ、よほど口惜しかったと見えて、それから数日経たある日私を呼出し、「誓約書をかけ」と言うので、私は
「何の誓約書だ」と訊くと、
「君は療術行為はいかなる事情があっても一生涯やらない事を誓うという事を書いて出せ」というので、
「実に御念の入った事だ」と驚きながら、言うがままの誓約書を入れたのである。ところが、これについておもしろい事が起こった、というのは翌年であった。それは某大臣、某将軍、某大実業家等が私の治療を乞いに来るので、私は、
「今は廃業して治療は出来ない事になっているから、是非治療して貰いたければ、警視庁の許可を得なさい、そうすればいつでもやって上げる」といったので、それらの人は、警視庁へ許可を受けにゆくので、同庁でも当惑し私に向かって、「療術行為の届出」をして貰いたいと要望するので、私も仇を討てたような気がしてその通り届出をし、それからやむを得ない人だけ治療をしてやる事にしたのである。それが終戦までの経路であった。
昭和24年12月30日



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