御法難事件


古来「宗教に法難は付物」とも仰せですが、明主様の御法難も御命を縮められる程に厳しいものでした。ここでは新聞記事からみる御法難という切口で、この事件を振返りたいと思います。

尚、誤りや悪意のある記事も多いのですが編者意図を御理解頂ければ幸いです。


某紙 昭和25年5月30日 夕刊(2面)

“お光さま”逮捕さる
所得税脱税の疑い

観音教 熱海、箱根を急襲

【静岡発】 戦後新興宗教の王座といわれ、信者二十万を誇称するお光さまこと世界メシヤ教会(旧日本観音教)は各方面からその内容を疑惑視されていたがかねて内探中だった静岡地検および国警静岡県本部は二十九日未明突如行動を開始、熱海市三本松重宗別荘から教祖岡田茂吉(六七)を逮捕、清水市庵原(いはら)地区署に収容した。逮捕状によれば脱税を目的の贈賄をはじめ同教団が従来大規模に行っていた“地上天国”と称する農地買収問題、ヤミ金融、ヤミ建築なども明るみに出され、さらに一昨年同教団の脱税事件を摘発した国税庁の査定内容にまで発展するのではないかとみられている。

※重宗別荘=碧雲荘

【静岡発】 静岡地検K、横浜地検Y、Mの三検事指揮の国警静岡県本部および県本部各地区署員約五十名は数班に分れ、二十九日午前六時を期して再度熱海市内清水町同教団仮本部ほか三ヶ所へ、箱根強羅の同教団夏ノ院三ヶ所などを急襲、熱海市三本松重宗別荘に教祖岡田茂吉(六七)の逮捕にむかった、岡田は起きたばかりで、“わたしの方からも種々警察にお話ししたいことがあるから”と素直に連行されたがさすがアプレ教の王座だけあって黒の着物に羽織ハカマ、ステッキというスマートないでたちで自家用車のデイエソートで一まず庵原地区署に収容された。
 岡田教祖に対する容疑は二十三年十一月から十二月にかけて所得税脱税の目的で五百万円の財産分割をはかり、このため○○銀行○○支店預金係長Y(三六)に数十万円を贈り便宜をはかってもらったものだ、令状は 経済罰則の整備に関する法律違反(贈賄行為)となっている。



この記事にある○○銀行の預金係長Y氏とは世界救世(メシヤ)教の一般の信者さんですが、我々信仰者からすると“教祖が信者にお金を渡して便宜をはかってもらう”と言うことからして何とも不可解な事件ではあります。
 しかし新聞報道によると、彼は収賄(ワイロをもらう)に関して自供をしたそうです。。。なぜだろう???

※同紙によると教団資産は「三十億ないし五十億円」だそうです。。。
どこまで増やすんでしょうねぇ?。。。自観戦記
(嘲笑)


同紙 昭和25年5月30日

お光さまは何故捕ったか
バレた容疑六つ

政党の幹部も出入り

[脱税] [農地買収] [地方自治法問題] [医師法違反] [軽犯罪] [団体等規制令]

--略--



明主様に対する容疑については色々書かれていますが、実際は贈賄(ワイロを渡す)容疑の1件です。
 ただ警察としては、“教団の土地建物の購入や、増改築の際の手続き不備を糸口に、それに関連する贈賄、脱税等の様々な疑惑・うわさについて明らかにしたい”という明確な意図がありました。
 前者の手続き不備については実際2,3の不備があったそうです。(勿論刑事事件ではありません)そして後者の贈賄、脱税については全くの事実無根が真相でした。
 しかし当局にはまた別の大きな思惑もあったようです。それが旧陸軍が秘蔵したというダイヤ・プラチナ等の隠匿物資の捜索です。
今聞くとチョッとお笑いですが、事実終戦直後(5年前)には日銀地下倉庫や東京湾海底から大量の金・銀・プラチナ・ダイヤなどの貴金属類が発見、押収された他、本土決戦用に分散備蓄されたはずの数十兆円(現価)相当の物資の紛失(隠退蔵物資事件)等々、国会質疑でも取上げられる位の結構リアルな問題が当時はありました。(今でも多くの都市伝説が残っています)
 しかしそれを明主様が隠してると言うのは悪質な投書、密告による疑惑と思われますが、この為前年8月には占領軍C・I・Dによる捜索(ナンも出ない)と、御法難事件の3週間前にも教団各施設は徹底的な家宅捜索(ナンも出ない)を受けています。
 教団関連記事に「ダイヤ」「旧軍属」「右翼」「政治家」等という単語を意図的に多用するのはこの都市伝説を盛上げる為のキーワードのひとつだったと考えられます。


「東方之光」誌では、このような家宅捜索、悪質投書が横行した要因として、
@浄霊や自然農法についての説明が十分ではなかった事
A本部の指導が全国隅々まで徹底されず、行き過ぎた面があったかもしれない
などの点を指摘した上で、これによる悪感情が教団誹謗の投書に繋り、それを受けた当局の疑念も広がったのではないかとしています。

 更には、当時あった「第三者通報制度」という脱税の密告者への報奨金制度の悪用や、急成長をとげる教団に対する恐れや嫉妬、そんな投書・密告に跳びつくマスコミの商業主義等についても、かつお的には指摘せざる負えません。
(邪神の活躍もあるな、これは!)


と言う訳で、今回の逮捕劇は以前から注目の「お光さま事件」だけあって、新聞ラジオは一声に大きく報道し、全国的な大ニュースとなりました。
そして以後は折に触れ、面白おかしく興味本位の報道が続けられました。。。


某紙 昭和25年5月30日

 寝込を襲われたお光さま岡田教祖
 きょう本格的取調べ

 庵原地区署に収容さる
 --略--
 財産分散、脱税と贈賄
 --略--
 
“教祖”を辞したい
 取調べに沈痛な言葉
【写真 留置される岡田教祖】
午後六時四十五分庵原地区署留置所通路にて撮す
国立国会図書館 所蔵


【清水発】静岡地裁O判事の令状で身柄を庵原地区署に護送された観音教団岡田教祖は同署二階電話交換室隣の中から鍵のかかった一室に姿を消したまま国警県本部捜査課M、K両部長、安倍地区署Y部長など三刑事の慎重な取調べがすすめられている
教祖はこの間白髪頭に手をあて、始終うつむいたまま刑事の尋問をそらして、ことの多くを語らず、結局「お光さまご難」の初日は問題の真相を追及するまでには至らず同日午後六時四十五分身柄を同署に留置され、豪奢(ごうしゃ)な私宅に引かえて余りにもわびしい独房の人となった
 なお教祖の身を案ずる教団本部首脳陣や信徒たちはしっきりなしに同署に押しかけたが、※接見禁止で面会が出来ず、わずかに四、五名の弁護人だけが数分ずつ会見した程度だった
岡田教祖は第一日目の取調べを終えて身柄を留置されたが、取調べの刑事に対し--中略--つぎのように語っている
私は身の潔白を信じている、また信徒も私の正しさを知っている、しかし私の身にまでこのような事態がおよんだことは何ともいい知れぬ淋しさで胸が一ぱいだ、どうしたことか今までは※一ヶ月に一千万円もあった浄財が六百万円そこそこに減りこのままでは教団の前途が危ぶまれる、私はこの際今度の問題を機会に教祖の職をやめようと内心決心している、このことが全国信徒に与える影響も大きいだろうが何とも致し方ない

※次に弁護士との接見が許されたのは勾留10日目の事だったそうです。法的助言すら受けられない中、あの過酷で孤独な取調べは行われました。
※別紙では
「一ヶ月に一千万円などと言われるが実際は六百万円そこそこで・・・」となっています。。。


上記は警察会見の談話による記事と思われますが、初日取調べを終えての明主様の御心境は誠に複雑で、教祖を辞する事まで御考えになられていた事が拝察されます。
我々にとっては誠に恐懼(きょうく)に耐えがたい記事です。

しかし外部では、さらに。。。


某紙 昭和25年5月31日

「公益を害する行為」
観音教団解散か
法務府宗教法人令を検討


法務府特別審査局第三課では世界メシヤ教会(旧観音教)教団がかねて @政治関係者の出入りも多く政治献金の疑いがあること @同教団の機関誌「光」には産児制限問題、観光事業などに関し政治的色彩の強い論評をのせていた事実などから政治団体の疑いありとして団体等規制令に基く届出団体であるか否かを検討中だが、刑事事件の面からも政治資金規正法の疑いが残されているほか同教団の超非科学的な治療法が『公益を害する行為』と認定されれば宗教法人令第十三条により解散を命ぜられるものとみられる


 先年の脱税(申告漏れ)事件(自観戦記)、脅迫型のユスリによる投書、これまでの誤った報道に加えて今回の逮捕は当局を強く刺激したようです。万一解散ともなれば再起はほぼ永遠に不可能となる御神業始まって以来の大ピンチかもしれません。

 またこの『公益を害する行為』、『宗教法人令』というキーワードは明主様御昇天後の教団にも様々な波紋をもたらすことになりました。。。


某紙 昭和25年6月1日

 “岡田教祖”追及核心へ!
 峻烈な取調べを開始

 農地をめぐる贈収賄
 --略--

 すべて神の試練
 囚われの心境を語る岡田老
国立国会図書館 所蔵


【清水発】庵原地区署での独房暮し三日間、取調べ室の中からの施錠で一切の面会を禁じそれが終れば房内におさまって沈思黙考、会見しようにも手を出す余地がなかった、お光さん岡田教祖と記者は三十一日午前、瞬時の会見によってその心境を叩くチャンスをとらえることに成功した“別段何もいうことはないよ”と前置きしながらも霜降り頭を右左に動かしながらぼそりぼそりと話し始めた。お光さんとの一問一答はつぎの通り
【問】気分はどうです
【答】年を取っているが気分は至って晴れている、というのは神のお告げで暫くここに辛抱せよというのだからたとえ環境がどのようになったにせよ、気持ちの上ではちっとも変りはない、またこのような出来事もこうなる神のお恵みと思っている
【問】その後の心境はどうか
【答】取調べも非常に紳士的に行っているので、これという不満はない、すべて神の私への試練と心得ているので心の中に一片の暗さも曇りもない、本当にはればれとした清々しい気持ちだ
【問】房の中では何かお祈りでもしていますか
【答】別段お祈りはしていない、したというなら何十万の信徒達がやっているだろう
【問】捕われてから何か神のお告げでもありましたか
【答】警察へ泊った最初の夜、静かに眼を閉じていると全身から光が発散するようだと思った、瞬間、神様の有難いおふれがあった、どんなおふれだったかは身の潔白が認められてここを出る時いろいろお話することにしよう
【問】こんな事件があっても信徒は減りませんか
【答】その通りだ、この岡田が私利私欲のため悪事をしたというなら別だか、すべて神のお指図によってしたことだ、これを幸運の前触れとして信徒はますますふえる事間違いない
【問】信徒は現在どの位あり、また今後どの位になると思う
【答】今は三十万そこそこだが、年内に必ず五十万以上になり、二、三年後には百万人になり世界の大宗教に発展するだろう
【問】これを機会に教祖をやめるとか教団を解散するという話を聞くがどうですか
【答】教団を解散するようなことは有得ない、教祖をやめることについては事件直後には考えないでもなかったが、その後いろいろ思案した末多数の信徒が私の潔白を信じている以上将来ともその陣頭に立ってその光を的として神にお仕えすることに決心している
【問】事件の見通しについては
【答】無論無罪、人様はいろいろといわれるが正しい行いをしているものに神がその身を陥(おとしい)れるようなことはない



初日取調べ後の、あの恐懼(きょうく)に耐えがたいお話しの直後「神のお告げ」があり、複雑な御心境から一変して「晴々とした気分」になられた明主様が拝察されます!むしろ「幸運の前触れ」である事を確信されているようです!
 この事についての御論文該当箇所は次の部分と考えられます。


「忘れもしない、今度の事件で留置されたのは、昭和二十五年五月二十九日であったが、間もなく留置所にいるのは十八日間という神様からのお知らせがあった。それは数えてみると六月十五日までとなる。ところが当日の二、三日前くらいから一大神秘が起った。」
一つの神秘 昭和25年12月20日


 勾留期間が6月15日までなんて。。。5月31日のインタビューで言えるわけないですね。。。と言うより“あの6月15日まで”という所に重大な意味がありそうです!また十八日間という数字にも経綸上の神秘が感じられます。

 しかし明主様がこの一問一答のインタビューを受けられている丁度その頃、担当検事は別室で検事勾留請求の手続きを整えていました。そして国警静岡県本部捜査課との打合せ後の午前10時20分、明主様の御身柄は静岡地方裁判所へと一旦移され、判事による40分程の勾留尋問を受けられた後、検事勾留10日間の認許によって、再びカメラの砲列と、やじうまと、信者さんの待つ庵原地区署へと戻られました。
上の御写真は、担当警部護乗のもと庵原地区署から静岡地裁へ向かわれるところだそうです。。。
右の御写真も同日のもの 東方之光誌より


「最初警察署を出る時係官がいうには「今日は新聞屋を初め見物人が多勢待ち構えているからそのつもりで、出来るだけ素早く乗った方がよい」と注意され、警察の方でも数人の警官が整理に大童(おおわらわ)であった。署の裏口から裏門までの十間くらいの道にもカメラと映画班の砲列が隙間もない程だ。裏門を出てからもカメラの砲列は続いている。待ち構えていたので、パチリパチリと目紛しい程だ。私は心中やましいところはないから、平然として車へ乗ったが、この時の私は二、三のニュース映画に出ているから、見た人はよく判ったであろう。警察の前の通りは八間巾くらいだが、見物人や信者でギッシリだ。数百人くらいか否千人くらいいたかも知れない。信者も相当いたようだが、信者は合掌しているからすぐ判る。驚いたのは私の車が警察署から数丁離れた時、後からスピードで追抜こうとする車がある。フト見るとカメラを車の中からこちらへ向けて、車の速度を合せながら撮しているので実に驚いた。一時間余で車は静岡裁判所の表門に着いたが、ここでもカメラの砲列だ。映画班など多勢待機していて、往きも復りも同じように撮っていた。またここでも面白い事があったのは、車が走り始めて数丁くらい行った時、走る車のボディの上に乗って運転台の窓が開いていたので、その窓からレンズを向けて映画を撮ろうとしている。これに気付いた同乗の警官は車を停め、仲々強硬な彼を説得してやっと降してまた走り始めたという訳である。警察にいる間土地の記者が時々来ては、質問やら撮影やらをやった。」
法難手記 昭和25年10月30日


同日・同紙

“お光さま”のお献立拝見
差入屋ともすっかり懇意

国立国会図書館 所蔵
【清水発】お光さま岡田教祖も一日警察の独房におさまれば我がまま放題もならず房の中や取調べの合い間合い間に差入れの五、六本の煙草「朝日」と三度の食事を待つのが何よりの慰さめ、差入れやのおかみとは、すっかり懇意になって「やっ介だろうがよろしく頼むよ」と微笑みかけるという
そこでお光さん些(いささ)か勝手の違った警察署内でのお献立を拝見におよぶと、先ず朝食は豆腐の味噌汁に卵焼き、それに長寿食という塩ゆでのえんどう豆を小皿に少々、味つけ海苔に食後フルーツといったところで飯を茶碗に一膳か一膳半、昼食には卵焼きに軽いお魚、鰻の蒲焼き、味つけ海苔に野菜の煮つけをほんの少し、ご飯は朝食と大体同じ、夕食は刺身ならば鯛の白身か鮪(マグロ)が十切ばかり、それに野菜の煮付け程度の食事を二膳位、三度の食事からはなれないのは卵焼に塩ゆでのえんどうと味付け海苔、食後のフルーツそれに一日一度は必ず餅菓子三個を味わっている。一切酸っぱいものは大の嫌いとあって口にしない、こんなところが教祖の独房暮し三日間のお献立
この程度では大して豪勢とはいえないが人がかわっているだけに、差入れやさんにしてみれば近頃の変り●というわけ
【写真は岡田教祖の献立】


この差入屋の女将さんが、御講話や景仰誌にも登場される方でしょうね。そして未信者が故に明主様の御世話が許され、岩戸開きの型としての一端まで担う事になるわけです。これもまた経綸の人智を超えたる神秘を痛感する事実です!



そして静岡地裁から戻られた明主様は、写真のお献立をお召上がりになり、午後1時から本格的な取調べに臨まれました。
つまり御命を縮められる程に厳しい取調べ、“頭脳の拷問”が開始されました。。。


「当時(戦前)の調べは三回共特高であったが、特高の調べなどというと、非常に封建的であるように想像されるが、今回の取調べに較べてみると、比較にならぬ程、今度の方が峻厳苛烈で、戦慄の一語につきると言ってもいい。」
法難手記 昭和25年10月30日発行


※写真は留置場前に置かれた明主様のステッキと下駄。。。鍵の掛けられた扉には四つの窓と鉄格子が見えます。左隅が差し入れ口。
こんな劣悪な環境下で神事は行われました!(撮影は弁護士さんでしょうか?モヤッとしたのはただの現像ムラです。時節柄写真屋に現像を出せなかったとも推測できます。。。?)


この頭脳の拷問は、この日から当初予定の勾留期間10日間をさらに延長して神事の前日の14日まで継続され、庵原地区署での勾留は神様からのお知らせ通りに翌6月15日朝までの18日間となりました。この昭和25年6月15日、雨上がりの夜明けを以て密かに神人合一の境地へと上り詰められます。


いよいよ、六月十五日となった。すると朝まだき、今日の重大な意義がハッキリして来た。というのは以前かいた著書に、私のお腹の中に光の玉があるという事で、これを読んだ人は知っているだろうが、この光の玉には今まで魂がなかった。ところがいよいよ今日○から○ったある高位の神様の魂が宿られた、すなわち右の御魂が現世に生誕された事になるのである。これからこの神御魂(かむみたま)が段々御育ちになり、成人されるに従って、玉の光は漸次輝きを増し、将来大偉徳を発揮さるるに到るのである。
--中略--
実に人類始まって以来の大慶事である。ところがこのような万人祝福すべき空前の重要神業が、一人の部下もいない陰惨なる牢獄内で行われたという事は、何たる皮肉ではなかろうかと、私はつくづくおもわれたのである。

一つの神秘 昭和25年12月20日




某紙 昭和25年6月3日


“教祖”拝顔に押寄せる信徒
覆面男も現る

 座り込戦術に署員ギョッ


【清水発】お光さん岡田教祖が熱海冬ノ院から検挙されてすでに五日、地上天国の実態を衝かんとする取調べの進展とともに教祖の仮住居?庵原地区署の門をたたく信徒の数も日増しにふえて二日は早朝から午後四時ごろまでに二、三十名を一団とする六組の礼拝団が押しかけ、道路をへだてた税務署前に立ち並び、警察署二階の取調室をじっと見つめてはうやうやしく礼拝、感極まってすすり泣くものさえ見られている
 しかし取調室は片窓こそ空いてはいても中からカーテンがかけられ、お光さまの霊光をさえぎっている、それでも時折そよ風のいたずらでカーテンがチョッピリ裾をなびかせると信徒の眼は一挙にそこへ注がれて、一眼だけでもと拝顔のチャンスをねらうが、待てど暮せど一向にその姿をみえず、あきらめては帰り行く信徒たちの後姿がしおらしい
 中には変り種もあってこの日午後三時半ごろ、黒地の羽織、袴姿、顔を白布で覆面、嘆願書を手にした一信徒が、同署受付にあらわれ“教祖にお目通りを”とたのみ込んだが、弁護士ですら面会出来ぬ接見禁止の身とあって会見を断られた
名も告げぬご当人は“しからばお会い出来るまで、ここにてご免・・・・・・”とばかり署内の待合椅子にドッカと腰掛けての座り込み戦術に入り、覆面したままあちこちをキョロキョロ見回す不気味な姿に署員達がギョギョッ・・・・・・
【写真は教祖に面会を求めた覆面男】
国立国会図書館 所蔵


後の記事によれば明主様の勾留期間中、御身を案じて駆け付けた信徒は凡そ5千数百人だったそうです。
記事の通りなら単純平均1日280名程の信者さんが、この小さな町に集まり、後半は記録的豪雨(御法難のページはみだし)の中を一心に祈りを捧げていたことになります。
このような信者の祈り、心配をよそに頭脳の拷問は続けられ、明主様は勾留中に2度までもお倒れになりました。(M刑事部長に背負われ留置場へ運ばれる途中「これは頭脳の拷問だ」と叫ばれる)
警察医の診断では「脳神経衰弱」という診断だったそうです。以後は間断のないめまいに悩まされながら取り調べを受けられましたが、事ここに至り心身の限界を自覚され、虚偽の供述にも協力せざる負えない状況になってしまいました。
 昭和29年神秘の御浄化が脳溢血症状であった事や、「私は確かに頭脳のどこかが壊れたような気がする。」等の痛ましい法難手記の記述から考えても、御命を縮められた要因となった事は明白と考えられます。
写真は庵原地区署跡と思われる現在の蒲原郵便局(御法難のページより)



御法難事件3週間前の家宅捜索の際、教団幹部の2名も逮捕されました。この方々も同様に頭脳の拷問を受けられましたが、お2人共全く身に覚えの無い容疑の自供を強いられ、絶え間ない尋問によって次第に心身共に衰弱していきました。それでも「明主様だけには、万が一にも御迷惑をかけるようなことがあってはならない」という一念でウソや誤りについては否定し続けられましたが、コジツケやウソの証拠固めによって明主様の逮捕も目前にまで迫っていました。
「君が言わなければ岡田教祖に来てもらう。」
という検察の巧みな誘導によってお2人は、遂に造られた容疑でも自分だけの責任として認め、有罪覚悟で明主様をお守りするという決心をされ、以後は虚偽の供述と知りながらも警察のシナリオに則った供述にも一部協力されたそうです。
 しかしこれこそが検察官の狙いそのもので、明主様の逮捕や勾留理由のひとつに利用されてしまいました。
そして出所後、一方の御先達は心身共に衰弱甚だしく、医師によれば「心臓衰弱と肝臓炎の併発で1ヶ月の絶対安静」との診断だったそうです。
 冒頭記事の預金係長Y氏(一般信者)の自供についても、上記のような状況下での自供であった事が容易に推察されます。事実この事については後に明らかにされます。
※医師の診断は治療の為ではなく、診断書の必要の為です。また当時も重病者の浄霊には医師の診断が必要とされていました。


某紙 昭和25年6月17日


お光さん 赤煉瓦(れんが)御殿へ
豪奢な差入れ料理と別れて
冷めたい鐵扉(てっぴ)を潜る


国立国会図書館 所蔵
【清水発】医者のいらない霊波のおさすりを売物に全国の信者自称三十有余万を背景として一月一千万円の浄財?・・・を集め箱根を夏の院、熱海を冬の院として老らくの身を栄華の極地に陶酔の夢をむさぼっていたお光さんこと世界メシヤ教の岡田茂吉教祖(六七)が自己の脱税をたくらんでの財産隠匿、それにつながる銀行員への贈賄容疑で五月二七日朝国警県本部捜査課の手に捕えられ、身柄を庵原地区署に留置されて以来すでに三週間、罪状はすらすらと自供した教祖も問題が、教団の運命を決すると思われる農地買収にからむ贈賄に進むと、そうそうやすやすと口をすべらさず結局今までにわかった罪状の事実は脱税を援護してくれた銀行員Yに三十万円、不正建築をかばってもらった○○地方事務所のU建築係に一万円、それに教団造営用に使った闇ガソリン十三本の不正購入だけで事件は一頓ざで、すっかり暗礁にのりあげた形である
--中略--
この間、教祖の身を按じて東海、関東、北陸地方はいうにおよばず、遠く北海道や九州あたりから、押掛けた信者の数がざっと五千数百人、手に手に携えた差入れのお見舞品が菓子、果物など二百余点一個百円もするシュークリームや、高級洋菓子など、いずれもちょっと手にはいらぬような珍品ばかりが顔をならべ、その合計額は数万円を下るまいと署員がうらやむほど、教祖の三度の食事には好物の卵焼、えんどう豆の塩ゆで・・・
--中略--
このほか本部のM事務官が市内の旅館に泊り放しでこれが一日に一千円見当、教祖を尋ねた信者の泊り客が百人位、二十日間の旅館は思わぬ稼ぎになったわけだが、旅館にいわせると他のお客は締出しだから結局同じことだといっている、その実懐具合はどんなものか
とに角宗教財閥お光さんともなればまんざら敬遠すべきお客でもなかったようで・・・「気持ちのいいお爺さん」・・・と旅館の女将がほめ切れない
--中略--
あれやこれやとミソばかりつけた清水での二十日間〔十八日間〕にさよならして十五日朝住みなれぬ静岡刑務所へとぼとぼつえにすがって引かれていった、そして、駿府はお堀端の赤レンガ御殿におさまってからの教祖が今度は何を仕出すか、県都市民のお楽しみは大きい【写真は岡田茂吉老】



相変わらずの酷い書きようですが。。。庵原地区署内にて神事を終えられた明主様が、その直後に静岡刑務所へ移られたという事が再確認でき、一部不明瞭な内容を含む下記速記録の意味についてはこの記事からも整理が出来たように思います。(それと某新聞社の報道姿勢もね)


「翌日「君出なさい」と言う。釈放されると思って外へ出ると見知らぬ警官が、今日は静岡へ行く・・・と言う。身のまわりのものを整え、自動車に乗せられ、喜んだのは逆で、刑務所の表のほうへ着いた。手続をすまして中へ入ると、新しくできたアメリカの監獄のようで、これは長くいても辛くないと思った。一輪の身魂が宿る・・・神様に聞くと、いったん日本の真ん中へ行かなくてはならぬと言われた。刑務所は静岡の真ん中になる。」
御講話 速記録 昭和25年8月1日

※一輪の身魂=一厘の御霊


そう言えば立教の時の場所も、神示によって東京の中心、家康居城の江戸城お堀端と定められましたね。。。

※「御法難」のページより転載



一旦日本の真ん中(静岡刑務所)へと移られた明主様は、その後各種手続き、補足的取調べを受けられ、6月19日午後10時に処分保留が決定、同11時頃漸く釈放となりました。(勾留22日目)
そして7月12日に起訴が確定、10月11日に第一回公判が開かれ、以後2年2ヶ月にわたって法廷で争われました。
しかし裁判は弁護側、検察側双方の主張が最後まで平行線をたどり、新たな事実?、新展開なども無く、記者は待望の面白ネタを書けないままに終了と相成りました。また不当判決についても明主様以下教団関係者が上告を放棄してしまった為、各紙共これにて万事休す!面白ネタは書けずじまいでネタの賞味期限切れを迎えてしまいました。
仕方がないので各紙そろって判決内容の箇条書きを小〜さく載せる事で、あの熾烈な報道合戦は何ともあっけない、お粗末な終焉を迎える事となったのであります!(笑)
右は教団関係者の上告放棄を報ずる記事。これまた小っさい(大笑)


唯一【解説】を掲載した新聞社も「泰山鳴動、ネズミ一匹」と記事を結んでいます。(笑止千万)

※泰山鳴動してネズミ一匹=大騒ぎした割りに実際の結果が小さいこと


一方教団外の事件関係者は直ちに上告し、2年後には全員無罪の判決を勝取りました!そしてその中には冒頭記事にあるあのY氏も含まれており、無罪の理由は“被告の自白の任意性に疑いがもたれ、証拠不十分”という内容だったそうです。つまり御法難事件の発端となった彼の自白そのものが、“強制ではなく自らの意思で供述したのかに疑いがあり、証拠にはならない”というわけです。。。

 ったく!んじゃ〜この事件、全国を巻込んだ一連の大騒動っていったい何だったんでしょうねぇ。。。発生していたのは官憲とマスコミ、ユスリ団等によって作られた「えん罪事件」だったという事でしょうか。。。


御法難事件とは勿論明主様が神人合一へと至る過程、メシヤへの重要な過程であると同時に、狭義(きょうぎ)には今なお続く被疑者人権の問題、そして自供の信憑性と証拠としての偏重に関連する問題も含まれています。
あと報道の信憑性と情報としての偏重に関連する問題もね。。。(笑)。。。



「法難手記」はしがきへ
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尚、上記の様に間接的な形とは言え明主様以下教団関係者の無実が証明されたのは、明主様御昇天以後の事だったそうです。。。


はみだし@


明主様が御法難事件の「頭脳の拷問」を受けられた当時、同じ「国警静岡県本部刑事課」にはKと言う警部補がいました。彼は戦前から重大事件を幾つも解決し県下一の名刑事と言われていましたが、「二俣事件」で捜査協力した二俣町警巡査Y氏の告発から、後に「拷問王」と呼ばれるようになります。
Y元巡査は「二俣4人殺し事件」の無実の被疑者Sの逮捕に関与したことを悔い、国警のK警部補の捜査手法を新聞に告発、法廷では弁護側証人として被疑者Sのアリバイ、K警部補の捜査手法、県本部の内部体質にまで及ぶ証言をしています。
 K警部補の捜査手法とは、彼が怪しいと考えた被疑者に対しては拷問による尋問で、自白を強要し、供述調書を捏造するというものだったそうです。つまり彼が推理、又は創作したストーリーをまず作り上げておき、それを肉体的、精神的拷問によって被疑者に言わせるという方法です。彼のすごい所はそのストーリーの内容にあって、推理小説まがいの事件が展開し、その中に(推定証拠)犯人しか知り得ない事柄を折り込む事によって、被疑者を確実に有罪にするという所で、後に判明した事実では、新たなアリバイが出た場合にはそれを打ち消す決定的証拠まで捏造していました。また拷問による尋問は自らが行う事はなく、部下が拷問役、尋問役に分かれ場所まで変えて行い、肉体的拷問と自白の関係性を断ち切る手法もとられていました。彼の手法は戦前のそれと比べてある意味洗練されており、新憲法、新刑事訴訟法に則った供述調書を作り上げましたが、昭和20年代中頃からの数年間で幸浦、二俣、島田、小島事件と4件の重大えん罪事件を発生させ、前の3件は死刑判決から無罪へ、小島事件は無期から逆転無罪となっています。
 彼がなぜ多くのえん罪事件を発生させたのかについては諸説ありますが、ある重大事件を解決し新聞に載り、表彰もされ警察大学で講演までする程の有名人になってしまった事が指摘されています。国警静岡県本部刑事課内で名刑事として君臨する為には、関った重大事件は鮮やかな推理と、決定的証拠によって解決されなければならない必要があったという訳です。
またY元巡査の告発によれば、「県警の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言しており、事実K警部補の部下は後に、これまた有名な「丸正事件」というえん罪事件や、えん罪疑惑事件として今も疑問視されている「袴田事件」(袴田死刑囚は現在も東京拘置所に収監中)を起こしています。

明主様が「頭脳の拷問」と称された取り調べは、このような問題を内在した当時の国警静岡県本部刑事課主導の元におこなわれていました。。。


※「二俣事件」の発生=昭和25年1月6日
 「御法難事件」の発生=昭和25年5月29日
 法難手記の発行=昭和25年10月30日
 Y氏の新聞への告発=昭和25年11月23日(一連のえん罪事件発覚の発端となる)
 新しき暴力(法難手記+ある日の公判スケッチ+著名人の論評)の発行=昭和26年8月10日(未信者の方が一般向けに発行)


話は変わりますが、彼の捜査手法を告発し弁護側証人として法廷にまで立ったY氏のその後は国警、自治警を全面的に敵にまわした為大変悲惨なものになりました。
彼が所属する二俣署からは署長が法廷に立ち、彼の告発をことごとく否定したばかりか、彼の勤務状態は異常であり、性格は変質的であると断じ、1ヶ月後には偽証罪で逮捕、警察を辞職させられてしまいました。この為親戚や地域からは村八分にされ、検察の精神鑑定で「妄想性痴呆症」と診断された為、運転免許も取上げ、職にも就けず、新聞配達で辛うじて一家を養う事になりますが、彼は独自に執念の調査を続けある結論へ達しています。
また10年後には不審火によって自宅が全焼し貴重な捜査資料、裁判資料も焼失しましたが、この時も彼の長女と長男が「長靴をはいた不審な男が家に入るのを見た直後に火が出た」と言っているのに、逆に容疑者として長男が補導され、厳しい取り調べが行われたそうです。ここでもまたえん罪が繰り返されようとしました。ちなみにこの時すでに二俣事件の無罪は確定していましたが、それにリンクしてY氏の名誉回復裁判は進行中で、名誉回復が成ると今度は署長が偽証に問われるという、警察とは微妙な関係にある頃の事件でした。。。



二俣をはじめとする上記えん罪事件は後に、新聞、雑誌、書籍として数多くが出版されましたが、その多くが「えん罪事件という国家犯罪に対する左翼系弁護士の闘争」とか、拷問を受けた中に朝鮮人がいた事等から「公権力による差別問題」にも歪められ、またK警部補という特異な人物を類型的な悪役として当てはめ、いつものパターンで問題の本質を覆い隠してしまっているようです。。。
「法難手記」及び「新しき暴力」は、えん罪被害者自身が事件直後に、出来事を時系列的に正確に記し、赤裸々な心情と共に問題の本質に迫った稀有な書です。えん罪は無くならず、その原因・手法は複雑になってきている現在においても研究がなされるべき貴重な資料と言えるでしょう。さらに膏薬張りでなく犯罪自体を減らす方法については、他の御論文の研究も必須なんですけどね。。。


※えん罪を無くす方法として「取調べの全面可視化」が以前から論議されマニフェストにも載っているそうですが、これもどうなんでしょうね。。。何時ものように耳ざわりの良い法案ですが、海外の実例(一部可視化)からは様々な弊害も報告されています。また日本の場合は、日本法曹界(一部)特有の問題から裁判にも大きな影響を及ぼすのではないかと心配です。。。“人類英知の結晶”とも言われる法律の限界がハッキリしてくるかもしれません。。。(かつお式)

その時、人は法律を恐れるより神律を恐れるべき事に気が付けばいいのですがね。。。
廃法府はま〜だまだ先の事のようです。。。



はみだしA


何か暗〜くなっちゃいましたね。。。こんな話題では終わりたくないので、最後に。。。
何時も悪く書く新聞社のひとつですが、以下のようなインタビュー記事があったので御紹介します。



某紙 昭和25年6月22日


岡田教祖小間物屋の旦那時代
お光さまはこんな人
元店員と女中さんの話


“お光さま”こと世界メシヤ教教祖岡田茂吉老は、ここ二旬の間につぶさに“生き神”としての天国、牢獄、地獄めぐりをして19日地獄の門を出て、天国の高座に座り直したのだが、さてこの“生き神様”まだ本当に一介の人間だった頃はどんな人だったろうか・・・昔々の物語り、今をさること30年、大正年間に彼のもとでともに働いたという二人の人達にきいてみた。一人は大正7年から11年の暮まで、岡田教祖の奥さんの縁者として本宅で女中をしていた静岡市○○、○○内に居住するAさん、もう一人は同じ頃岡田教祖がやっていた小間物卸店の店員を勤めていた静岡市○○のBさんの二人である。
【Bさんの話】 岡田さんは東京京橋区(今の中央区)北槇町で店員20名ばかりを使って手広く、金属、べっ甲、小間物の卸問屋を営んでいた。その取引先も白木屋、三越、松坂屋、松屋と大きな所で生れつきか、人の使い方は上手で、皆楽しく働けた、どういうものか使用人は静岡、東京、信州出身者ときまっていた、学校を出たからといってもすぐに一人前の仕事はさせず、半年ばかりは掃除をさせた、店員の給料はよく、その上小僧から大番頭に至るまで歩合制をとり、仕事の能率増進をはかるなど頭の冴(さ)え味をみせていた。家庭は本宅が京橋区大鋸町3丁目高島屋の裏で、そこに妻(先妻)たか子さん、姉の子を1人(氏名不詳)それに女中さん3人と6人暮らしであった。大正9年頃たか子さん病死、現在のよしさんと結婚した。
平素は無口で気むずかしやだったが、根はやさしく水天宮へ参詣の帰りに苦学生に逢いこれに同情、大学を出るまで仕送りしてやったという話もあった。金のことには実に悠揚(ゆうよう)で、一切女中まかせ、また反面ゼイ沢な所もあり、別荘を金沢
(神奈川県)にもち夕食はほとんど外ですることが多かった、酒、煙草等はあまりたしなまず、常に身ぎれいにしていたこの一見平凡な、そして幸福な卸問屋の旦那さんがどうして観音教とか世界メシヤ教とかを起し、お光様となったのか、私たちには判らない。
【Aさんの話】 私が女中をしていた頃は全然そんなことはありませんが、当時大本教が本部を丹波の綾部に設けた頃急に大本教の信者と使用人になり、毎晩お説教をはじめ、それまでは夏になると金沢の別荘へ使用人は1週間交替(こうたい)で休養にゆかせたのを綾部の大本教本部へと変わってしまいました。ことに自分に子供がない所からゆくゆくは養子にと姉の子をひきとっていたのを、ある夏綾部の川で心臓マヒで他界させてからはなおさらひどく凝り出しました。その頃そろそろ岡田さんの事業がゆき詰まってきたというのは、金に悠揚な所からすべて会計は人任せにしていたので他人にお金を使い込まれ、この穴うめに相場に手を出して失敗して私たちのやめたのちつぶれてしまったのです。終戦後“お光さん”で騒がしくなって新聞に出た名前をみるとたしかにあの岡田さんなので、私も気軽に考えて昔なつかしさに昨年8月熱海へ出掛けましたが、態(てい)よくあしらわれて門前払い同様、あの人に限ってそんなことはないのだがと君津の○○さんに話したところ、今度は○○さんが11月に出掛けたがこれも岡田さんに会えなかったそうです。
【人のいい岡田老】 岡田老の今度の事件に就いてはAさんもBさんも口を揃えてあの人自身はいい人ですよ、周りの者にうまく利用されているのでしょう。あの人は片目が悪く、右の人差し指も悪いが、昔はそれで図案なども自分でかき、モザイクダイヤなども発明したりしてその方面の才能もあったのだからお札を書いたり、指技などはわけないはずですよ、とに角今度のことはあの人の直接やったことではないでしょうよ、実際個人としてはいい人だったのですよ、と交々語っている。

国立国会図書館 所蔵


誤りも多い記事ですが、悪意のインタビュー取材にしてはイイ方だったので取り合えず掲載してみました。
 お店に信州出身者が多かったのは、母上の御実家が信州だった関係で、上京希望者を店員として受け入れる事が多かったからのようです。ちなみに番頭の木村氏の御出身は静岡だそうです。
 面白かったのは、入信後は毎晩大本教のお説教を聞かされ、1週間の夏休みも金沢八景の別荘から、修行に変わっちゃったんですね(笑)。。。さすがはカリスマ社長!。。。でもチトつらいなぁ。。。
しかし一般の商店では盆・暮・正月以外殆ど休みが無かった時代に、定休制が採用されていただけでもスゴイ職場です。しかも皆さん高収入!番頭の木村氏の給料は固定給+歩合で、資産家と呼ばれた明主様と変わりない程だったそうです。
 明主様とは、経営の神様でもあられたようですね!


※本ページに掲載した新聞記事は、事実や教義と違っていても一部そのまま掲載しました。
また何時ものように、明らかな誤字・誤植はなおしてあげました。
ったく、世話がやけるゼ! このとっくり野郎〜! 



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