萬朝報(よろずちょうほう)
      と理想団


「昔万朝報という新聞の社長であり、また翻訳小説でも有名であった黒岩涙香(くろいわるいこう)という人があった、この人は一面また哲学者でもあったので私はよく氏の哲学談を聞いたものである、氏の言葉にこういう事があった、それは人間は誰しも生まれながらの自分は碌(ろく)な者はない、どうしても人間向上しようと思えば新しく第二の自分を造るのである、いわゆる第二の誕生である、私はこの説に感銘してそれに努力し少なからず稗益(ひえき)した事は今でも覚えている。」
昭和25年3月18日

この黒岩涙香(周六)という人物は、明治34年に社会改良団体「理想団」を結成し、労働問題、女性問題、普通選挙運動、動物愛護運動等々に関り、社会の改良を目指しました。この団体から初期社会主義活動に傾倒していった者が多かった事実もありますが、このような涙香の社会救済の考え方は、正義感が強く、若く純粋な明主様の心に深い共感を与え、後に社会正義の為、新聞事業を志すきっかけのひとつともなりました。さらに後には涙香とは別の方法、もっと大きな使命から、人類救済の活動をされる事となります。


 「築地」のページより転載


20代前半の明主様は社会正義の立場で戦っていた新聞、この萬(万)朝報を待ちこがれるように読まれていたそうです。
ではいったいどんな新聞だったんでしょうか。


「趣味と実益との無盡蔵(むじんぞう)」このキャッチコピーは「楽しく愉快な記事と実際役立つ記事が、尽(つ)きる事無く入っている蔵、つまり無尽蔵(むじんぞう)に載っている新聞」て事だと思います。。。(かつお式)
「永世無休暇」はまんまの意味で、永遠に休刊日なしの意味!
なかなか力が入っていますが、名前は「よろず重宝」というシャレだそうです。。。(ハハハ)



新聞のモットーは「簡単・明瞭・痛快」、そしてたった4ページの新聞にして誰でも読める低価格を実現!しかし紙面の方は圧縮して情報量をUP!
でもなるべく読みやすい様にと活字や編集に工夫をこらしたり、「黒文字は目に悪い」と言う当時の誤った学説に従って最初は赤紙・赤文字で発行したりしました。(赤新聞)
 内容は反権力、社会悪を徹底追求!権力者のゴシップなどは積極的に掲載し、弱者の救済にも力を入れました。一方で第三面には扇情的な記事を載せて「三面記事」の語源ともなった他、家庭欄、英文欄なども創設して日本の新聞の基礎になりました。また涙香の翻案探偵小説は大人気で、後に出る江戸川乱歩に大きな影響を与えました。


左は明主様が22歳の頃、この新聞を待ちこがれるように読まれていた頃のものですが、その中で涙香が自身で創った「理想団」について書いた記事があったので以下御紹介します。明主様もきっと読まれた事でしょう。



言論 理想団の事に就いて
黒岩周六 述


理想団は「己を正して人に及ぼす」の主意だから、その点から言えば一種の修身会の様なものである。けれど修身(≒道徳)の為に修身するのでは無い社会の為に修身するのである。
団員個々の人格品性を高くして社会を改良しようと言うのだ、勿論品性の低い人に社会の改良が出来ようはずは無い、この点から見ると一種の社会改良団である。
しかし今までの所を見ると修身という方面は多少認められたけれど、社会改良と言う方面はほとんど空漠(くうばく)になっている。もっとも団員銘々自分の身を修めるという事が即ち社会の一部を改良するにあたるのでは有るけれど、修身の上になおも社会の実地問題に対して多少の意味を持つのが、団の本来の旨意(しい)だろうと思う。
之(これ)が為に自由投票演説会などを催した事もあるけれど、今は無い。今の所では隔月に行われる有志晩餐会と、随意談話会とがまず実際の仕事である。
これだけでは満足が出来ぬ、と余(よ)は思う、団員の多くもその様に申し越される、評議員中の幾人も同感である。
それが為に去る九日の夜を以って臨時評議員会を開いた。その主題は団の行動を敏活にする為に常務員を設けるというのであって、山形、塩谷の二君と余との三人がその任に挙(あ)げられた、余は特に理想団の最初の檄文(げきぶん)に名を書した身として責任の甚だ重い事を自覚せねばならぬ。
これからして常務員は、常務員の名に背かぬ働きをせねばならぬ。--中略--一切の点において、理想団をば実際社会に意味の有る様に進める計画をするのである。
その第一着として、今まで隔月に催した随意談話会をば公開演説会に組織を変更する。これは団員諸君に諒(りょう)して頂きたい。
その公開講演会は、団員が誰でも、自個の所感を社会に訴えるのだ、第一回は今月の末迄に開くはずである。場所と時日の定まり次第に発表するから、その時には団員諸君の中で演説しようと思う方は通知して下さる様に願うておく。
今まで朝報と理想団との関係は余り薄きに過ぎたかと思う、理想団の行動が、少しも朝報に記載せられなんだ、之は理想団を朝報の機関の様に思うたりする誤解を避けたい為であった。しかし最早や理想団の立場も朝報の立場もほぼ世間へ分かった様であるから、その様な気兼ねに及ぶまい。理想団の行動は必要な限り朝報の紙上で報道する。余及び評議員中の幾名が朝報と理想団とへまたがっている限りは、朝報で理想団の事を報じて良いと思う。なにも之が為に朝報が理想団に束縛せられるでも無ければ、理想団が朝報に制肘(せいちゅう)せられるのでも無い。
理想団の如き団体は機関として雑誌をでも発行するが良いかも知れぬ、けれど今はその時で無い、実はいまだ一個の機関誌を発兌(はつだ)するまでには成長していないのだ、依ってそれまでの所、朝報が理想団の報道の任にあたるのである。
余は常務員の一に就任する初めにおいて是だけの事を発表しておく、この後の事はその度毎に発表する、ただ願うのは団員諸君において、団体と言う思想と吾は理想団の一員であると言う自覚とを明らかに持って居て頂きたい、この思想と自覚とが確かで無ければ理想団は無意味である。之が有れば社会の実際に対して多少の行動は出来て行く、出来て行かねば成らぬはずだ。
明治三十七年二月十六日 萬朝報


熱っついなぁ〜!そしてまだ妙なイデオロギーに汚されていない、純粋で善良な正義感が伝わってきます。
 この時は日露戦争の真っ最中で他の記事は戦況記事が多いのですが、当時東京で1、2位の発行部数を誇った新聞の一面トップ記事が、社会改良を社長自らが訴える記事とする時代があったとは。。。これはある意味で既成宗教を超えている!
小生うかつにも少々感動してしまったもんで長文載せちゃいました!
そして「そうだ、これだ!」と膝を打つ若き岡田青年の姿が浮かんできました。


「団員個々の人格品性を高めるだけでなく、実社会に意味ある様にする為の計画」 その第一弾の公開講演会は、この後隔月ペース位で継続的に開催されています。その第一回講演会は上記記事の10日後、即ち明治三十七年(1904)二月二十六日(金曜日)以下告知のように実施されました。


理想団演説会
今26日午後6時より神田美土代町青年會舘に開く(傍聴料5銭)出席辯士(べんし)左の如し
黒岩周六 他11名



神田の青年会館とは右写真の「東京基督教青年會舘」の事です。
冒頭の御論文にある「第二の自分を造る」と言う涙香の哲学談を聴かれたのはこの年の事で、東方之光誌によると神田?惟一館(いいちかん)での出来事だそうです。
しかし「私はよく氏の哲学談を聞いたものである」の記述からすると、きっと理想団講演会へも度々足を運ばれたのではないでしょうか。それより、もしや団員さんだったりして。。。
 いずれにしても涙香の萬朝報と理想団は、正義感が旺盛過ぎる程の若き明主様に大きな影響を与えた事は確かなようです。

 ちなみに理想団講演会によく利用されたこの「基督教青年會舘」のあった場所は、現在の千代田区神田美土代町7、つい最近までYMCA会館があった場所です。。。キリスト教はスゴイなぁ。。。そして長い間ご苦労様でした。 m(__)m


今回は割愛しましたが、涙香の記事の多くに彼の哲学者としての一面を見て取る事ができます。そして今回御紹介した「理想団の事に就いて」からは強い正義感だけでなく、「プラグマチズム」の誠心をも感じられます。かつての新聞は公器たる新聞の使命を良く判っていたようです。



※日露戦争には当初反戦を訴えていた萬朝報だったが世論におされて主戦に転じ、戦中は国民に協力を訴えました。これを機に内村鑑三は朝報を離れて非戦論を展開、またキリスト教信者の立場から「無教会主義」を提唱して代表的指導者となりました。幸徳秋水・堺利彦らも退社して以後日本の社会主義の中心的人物となります。上記の新聞は丁度その頃のもので、理想を掲げる各々が自らの信じる正義へと羽ばたいていく若き時代でした。
そしてそんな中で、若き明主様が最も心引かれたものが涙香の「理想団」だったのかもしれません。
 日本的修身、導入したてのイデオロギー、国益と、新聞経営と。。。涙香さんも悩んだことでしょうね。




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