富士登山


明主様は山が大変お好きだったようです。大正末期40代前半の頃しきりに各地の山に登られているそうです。大本教に入信してお筆先や神霊研究に没頭されていた頃の事です。その後神示によって見真実の境地になられてから、このような機会があったかはよく判りませんが、御歳48歳の昭和5年7月には富士山に登られています。
富士山は明主様が最も愛された山であり、霊的にも重要な山であり、明主様の御足跡の中でも重要な部分となるかもしれません。つー事で、富士登山! 
しかし小生山登りはどうもぅ。。。


重要な神業(みわざ)なりける富士登山なさんと午前九時に家出(い)づ


昭和5年7月21日、明主様は二代様他10名の随行者を伴い、大森の松風荘から富士登山へと出かけられました!
では小生も77年遅れで行って来ま〜す!でもたどり着けるの?!
※写真は松の木越しの旧大森駅舎、駅パンフより。
この松、広重ゆかりの八景坂鎧懸松だったらすごい!


ご一行は午後1時頃に中央本線大月駅に到着され、ここからはバスで山中湖を経て河口湖の「船津ホテル」に御宿泊されました。 


船津ホテルは湖畔の岩の上に建つホテルでした。いや、半分湖上にせり出す形だったようです。
昭和7年からは現在の富士レークホテルに経営が変わっています。 



河口の湖畔の岩に腰かけて黄昏るる迄涼みけるかな


湯上りの夕涼みのようすを詠まれたのでしょうか。現在周辺は河口湖温泉郷と呼ばれています。


「そもそも霊的に見て、世界の中心は日本であり、富士山は地球の大黒柱である。見よその形たるや世界に類のない秀麗な山容であって、昔から神山または霊峰といわれ、外国人は日本のシンボルとしているくらいである等、そこに深い意義が秘められているのである。」
昭和28年7月8日


ホテルの対岸から見た富士山です。霊的には地球の大黒柱であると言われて、素直に納得出来る山容です!
※枠ありの写真はクリックで拡大。


翌7月22日、ご一行は朝から車で西湖、精進湖、本栖湖を巡られ、これで富士五湖制覇!となりなりました。なかなかGoodなプランニングです!そしていよいよ富士登山の第一歩として浅間神社にお参りをされました。


浅間神社は静岡県にある総本宮の浅間大社を筆頭に全国に1300余りありますが、ご一行の参拝された浅間神社はここ富士吉田にある「北口本宮冨士浅間神社」であったと思われます。
ご覧のようにその参道は樹齢数百年という杉木立と石灯篭に囲まれて厳粛な雰囲気に包まれています。そしてこちらは東京でのご足跡と違い、ご一行が訪れた当時の姿そのままを残しています。


江戸時代中期、関東を中心として富士講と言う富士信仰の集団が盛んに作られるようになりました。富士山自体が御神体であり、富士山に登ることで御利益を得られるとあって、江戸庶民を中心に競うように何度も富士登山をしていたようです。そして関東方面からのアクセスの良い富士吉田は代表的登山口となり、ここ北口本宮冨士浅間神社はその起点としてたくさんの参詣者を集めました。
また富士山頂にある浅間神社は奥宮で、8合目から上は浅間大社の境内となります。


こちらが拝殿・幣殿です。江戸時代中期に造営された社殿で市の有形文化財に指定されています。両脇には富士太郎杉と富士夫婦檜と呼ばれる御神木があります。 


小生はこちらの賽銭箱の前でご参拝させて頂きました。ご一行は昇殿されてご参拝されたかもしれません。


これが本社本殿です。幣殿奥にある為横からの撮影ですが、こちらに神様がいらっしゃいます。主祭神は御論文にも度々登場する木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)様であります!相殿神は彦火之瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)様[夫神]と、大山祇命(おおやまずみのみこと)様[父神]であります。
こちらの社殿は元和元年(1615)再建、桃山時代の特色ある建物で国の重要文化財(以後重文)に指定されています。


※このはなのさくやひめ(びめ)の表記は木花咲爺姫、木花咲耶姫、木花佐久夜毘売 、木之花咲耶姫、等々たくさんあります。


本社本殿の向かって左にある東宮本殿です。御祭神は彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)様をお祀りし、永禄4年(1561)武田信玄が川中島の戦いに際して、戦勝祈願の為本殿として造営したもので、後にこの地へ移されました。国の重文に指定されています。 


本社本殿の向かって右にある西宮本殿です。御祭神は天照大神様、豊受大神様、琴平大神様の三柱をお祀りし、文禄3年(1594)に本殿として造営され、後にこの地へ移されました。国の重文に指定されています。 


西宮本殿の横は参道になっており、奥には鳥居があります。


ここが古くからある富士吉田の登山道の入り口です。(標高860m) ここから先は富士山頂へと続く一本道となっていました。参拝後にそのまま登山道へと至る誠に合理的なシステムです。毎年6月30日、この鳥居に注連縄(しめなわ)を渡し、それを切ってお導開きとなり、7月1日からお山開きになります。
明主様ご一行もこの鳥居を潜って富士登山の第1歩を記されたかもしれません。ただご一行は途中まで馬に乗って登られています。


お社の後ろから撮影。右の舗装された自動車道が登山道の現在です。
暫くは舗装された自動車道が続きます。
浅間神社の鳥居から5kmほど登ると、中ノ茶屋があります。昔はここで一休みしたようです。ここから道は狭くなり、舗装もデコボコになります。

さらに2〜3km登ると馬返しに至ります。ここまでは一応自動車で来ることができます。


馬返し (1450m)


7、8年前までは、草ボウボウ、苔むしてちょっと恐い雰囲気でした。昭和39年に富士スバルラインが五合目まで開通して以来、この歴史ある登山口も朽ち果てるままの状態となっていました。現在は文化庁と市が「歴史の道」として整備し綺麗になった上、案内板まで出来ました(喜)!
ご一行が来られた当時は富士信仰こそ衰退していましたが、行楽としての登山客で結構な賑わいを見せていた事でしょう。


ここから先は道が険しくなって馬を引くことができず、ここで馬を返したことから「馬返」の名がつきました。馬を降りた人々は、ここの茶屋で休憩し、道中の身支度を調えました。鳥居の下では正座し、富士山頂を拝んでいたようです。富士山は、麓から頂上までの間が三区分され、それぞれ草山・木山・焼山と呼ばれていましたが、馬返は草山と木山の境にあたり、富士山の信仰領域の基点となる場所でした。 (案内板より)

ご一行はここから先も5合目まで馬で行かれました。


大願成就碑。富士講では何度も富士山に登ることが信仰的な業でもありましたが、この碑を見ると三十三度、六十六度、中には百八度大願成就などという碑もあります。よく見ると出身地や名前等も刻まれています。
また、来れない人の為に、東京の各地には富士塚という人工ミニ富士が盛んに造られました。


馬返し奥にある鳥居には神様の案内役の神猿像が向かい合っていらっしゃいます。雄雌はよく分かりません、つーか左右一緒かと。。。7、8年前はかなり苔むしたボロボロ状態で、左の神猿像だけが残っていました。この神猿像は最近復元されたものです。場所も鳥居の奥にいらっしゃいました。
そしてその奥にかつては禊所(みそぎじょ)があったそうです。 



禊所


古来よりここから先は、富士山の聖域とされていました。これより先へ向かう道者(信仰のために登山をする人々)は、大正期頃よりここでお祓いを受け、身を清めてから山頂を目指しました。そのため、この場所は、「オハライサン(お祓いさん)」とも呼ばれていました。明治頃までは、鳥居から一合目まで、直線的な登山道が通じていましたが登山道を迂回させる新たな道ができた後、旧道跡にこの禊所が建てられていました。(案内板より)


ここが禊所跡です。おそらくご一行もここでお祓いを受けてから登られたことでしょう。そしてここからが本格的な富士登山となります。小生も覚悟を決めて登ります。


さて、皆さんはここからどうされますか?「登山者」マークをクリックすれば、このままみあとを偲びつつ富士吉田登山道で登ります。「自動車」をクリックすれば富士スバルラインで5合目まで行って6合目で集合です。そして「家」をクリックすれば今回はご帰宅、再チャレンジということで!






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