みろく大黒天様


暮の二十四日の日に、麻布に、恵比寿大黒が沢山ある道具屋があるというので、川本さんに聞いて行ってみましたが、正面にこの大きな大黒様があったのであります。--中略--いよいよ私(道具屋)から別れる時が来たのかも知れません。しかも今日のこの二十四日は巳(み)の日であって大変結構な日ですが、三十一日は子の日でありますから、三十一日に持って伺います。と言う話になったのであります。値段も定(き)めないのです。
この大晦日の子の日という事は、何十年来滅多にない事で珍しい事なんだそうであります。--中略--それで三十一日の夜遅くこの大黒様を持って来たような訳であります。そうして大晦日の夜遅く一時頃、観音様と大黒様をお祭りしてから今まで土砂降りに降っていた雨が、ピタリやんだのは不思議でありました。その晩その道具屋は実に名残惜しそうにいかにも、別離苦の悲しみに堪えないように、大黒様に暫く取り縋(すが)ったりして帰って行きました。ちょうど娘を嫁に与(や)ったような状態でありました。それで観音様は大黒様を働かして、今後は非常に金を集められるだろうと思うのであります。
本日の発会式のその前日に、大黒様がどうしても来なければならぬという事も、実に不思議であります。応神堂を始めた時も今度もこうして、大黒様だけ御一体入るという事も不思議であります。いくら神様は有難い信仰は結構だと言っても物質が不自由だったらどうにもなりません。仕事が出来ません。
宗教によっては物質欲を非常に制しますが、物質をいゝ事に使い楽しく暮すという意味においては結構なのであります。観音様は非常に貧乏がお嫌いでありまして観音様をお祭りし大黒様を祭り、観音行をすれば物に不自由するような事は絶対に無い事を私は保証致します。それから、大黒様をお祭になる方はいつでも私が開眼をして差上げますから持ってお出でになって下さい。
大日本観音会発会式 御講話より 昭和10年1月1日



よく人に聞かれる事は、本教の信者は必ず大黒様を祀るが、観音様とどういう関係があるかと訊かれるが、これはもっともな話で、今日までそういうやり方は世間になかったからである。私が大黒様を祭り始めたのはこういう訳があった。確か昭和八年だと思う。数ヶ月赤字が続いた事があったので、いささか心細かったところ、時々私のところへ来るある銀行員が古い大黒様を持っているが、差上げたいというから、私も快く貰って、観音様のお掛軸の前へ安置したところ、その月から赤字がなくなって、段々金が入るようになった。そこで、私もなるほど大黒様は確かに福の神だという訳で、それから大黒様を人に頼んだりして出来るだけ集めた。--中略--麻布(青山)高樹町のある道具屋に等身大の素晴しい大黒様があるとの報告で、早速私は見に行ったところ、なるほど時代といい、作といい実にいい、売るかと聞いたところ、これは売物ではない自分が信仰しているのだから勘弁してくれと言うのでやむなく帰った。--中略--「先日の大黒様はお譲りしてもいいが、思召し(おぼしめし)があればすぐにお届けをする」というので、私は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。その晩自動車で届けられ、早速御神前へ安置した。その時の道具屋の話がおもしろい。「先生が御覧になった数日後夢をみた。それは大黒様が紫の雲に乗って自分の家からお出かけになったので、眼がさめてから、これはもう自分との縁は切れたものと思ったが、いまだなかなか思い切れなかった。ところが今日の大晦日はどうしても追っかないので、手放す事になったのである」という。私は、「いくらか」と訊くと、「そういう訳だから幾らとはいえない。包金で結構だ」というので、私は物価の安いその頃であったから、三百円包んでやったのである。ところが彼は帰りがけに哀惜の情禁じ難いとみえ、大黒様にすがりついて、ボロボロ涙をこぼしていた。その事あって以来収入が俄然として増して来たという事実は、全く大黒様のおかげとしか思えないのである。お名前は、「みろく大黒天」とつけた。麹町時代、玉川時代来た人はよく知っている筈である。この大黒様を写真に写した事があるが、その際はっきり円光が表われたので、当時信者の乞いにより数百枚頒布したのである。これでみても普通の大黒様ではない事が分る。制作年代は豊臣時代と思われ実に名作である。
昭和24年12月30日


この「みろく大黒天」様は現在、熱海救世会館の一室に御奉斎されているそうですが、我々一般人がおめにかかる機会は殆どありません。
でも明主様は以前、信者の乞いにより、その御写真まで頒布して下さいました。
故に、然るべき時、再び御出座し頂けるのではないかと、かってに確信しております!
そして大黒様信仰も。。。
集まった物質を、大いによい事に使う為に!


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